ルノー公団は1947年パリショーに向けて300台のルノ−4CVを完成させ、翌年の夏(1948年)には日産150台を達成していた。翌年(1949年)には68,000台を生産し、既に26,000台は国外に出荷していたのだ。その年のモンテカルロラリーにクラス優勝(426-NH7、#66)を、そして1951年のルマンでは栄冠を手にした(1657.8miles走行、68.9mph)。以下のカタログはそんな勢いを予感させる1949年当時の米国向けのカタログである。結果的にルノー4CVは生涯を1961年7月6日に閉じた。その間に1,105,547台生産された。(以上、参照資料:The Rommance of Renault, Edouard Seidabr)
1952年、当時の通産省は「乗用車関係提携及び組立契約に関する取扱方針」を打ち出した。それは販売の為の外国資本は認めないが、生産の為の資本投下は考慮しようと言うものだ。それはCKD(完全ノックダウン)の方法により、技術供与される技術図面で、部品の分解研究をしながら組立を行い、短時間に技術習得をし、最終的に国産化することだった。
日野は1953年に契約締結を終え、「ルノー製4CV」CKD生産を開始した。1958年には待望の「日野製4CV」となり、1956年およそ3年で10,000台を達成し、1963年8月まで生産した。その間の生産台数は34,853台であった。
ルノー公団と日野との生産量はおよそ30倍である。生産設備などの投資額を考えた投資効果はルノー公団のそれは卓越したものであり、当時の自動車業界のビジネスモデルとしては成功であったに違いない。
日野は投資効果から見て高い授業料の結果、後のコンテッサ900/1300へと技術発展させた。しかしビジネス的には乗用車撤退の苦渋を飲まされた。そして40年あまり経た後のルノー社は、日産自動車を救うことになった。そこでは生産量では小さいルノー社側のビジネスモデル&マネージメントが候を奏し、日産を立て直したのだ。
そんなことを思い起こさせるが、クルマのものづくりの上流インフラツールでもある例えばCADなどは目下フランス製(ダッソー社/CATIAなど)が世界的に主流の一つになっている。日本は技術面とかマネージメントにはまだ「後追い」から抜け出せないのだろうか?
10数年前、縁あって、日野自動車の皆さんにインタビューする機会があった。その際、東京都下日野市の本社の中のゲストルームで手厚いフルコースのフレンチディナーが振る舞われた。それはルノー4CVで始まった技術(ソフト&ハード面)の師としてのフランス文化に対する感謝の念を継承する意味とお話いただいた。儀式とも思えるこの奥深い光景は今でも忘れることは出来ない。それは若輩者にとって「文化」を感じさせるものであった。今日の日本の自動車産業にはそんなものを残せるだろうか?
(SE)
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