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クルマ
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ルノー日野(1953年)ノックダウン生産
コンテッサ1300クーペ:デラックスモデルとスタンダードモデル
参考:戦後の日野の乗用車のお手本、フランス・ルノー公団:ルノ−4CV(初期の米国向けカタログ)
モーターショー・スペシャル(東京モーターショー、50周年記念)
日野コンテッサ900 スペシャル(誕生50周年(2011年2月)記念)
生産台数
日本国内都道府県別登録台数
日野小型車グローバル・センサス(調査)プロジェクト
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ビデオクリップ
日野コンテッサ1300コマーシャル映像
トヨタブリスカ1300(現存)
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日野のクルマ:生産台数


日野自工データ(小型車)
車名
コード
生産台数
*
注釈
ルノー4CV
PA
34,853
1952年7月,ルノーと製造・販売契約。1959年9月、完全国産化。1963年8月、製造打切り。1964年3月、ルノーとの技術提携終了。
コンマース
PB
2,344
1960年2月発売。1962年生産打切り。
コンテッサ900
PC
47,299
1961年4月発売。1964年生産打切り。
コンテッサ1300
PD
55,027
1964年9月発売(クーペは1965年4月)。1967年生産打切り。
ブリスカ900
FG
33,916
1961年4月発売。1964年生産打切り。
ブリスカ1300
FH
15,036
1965年4月発売。1967年5月、トヨタブリスカ(10,000台、1年間限定生産)へと。
総生産台数
 
188,475
数字は生産台数の単純合計

当サイトの独自分析: 

【コンテッサ1300の生産終了は何時だったか?】

 日野自動車はコンテッサ1300の生産停止についてその公表はなされてない。社の「日野自動車工業40年史」には1967年のイベントとしてただ「コンテッサ生産打切り、乗用車部門より撤退」とあるのみで、重要なる正確な月日はブランクとなっている。では実際何時だったかについてには、トヨタとの業務提携の発表(1966年10月)、そして正式締結(1967年3月末)など、そしてその実行内容を分析し、下記の月別の公表生産台数を分析すると以下のようなことが見える。

  • 1967年3月の生産台数が前月の1,025台からおおよそ1/3以下の301台に激減している。これはおそらく大量生産のラインがなくなったと視る。
  • 1968年5月の生産台数が前月の100台から23台に激減している。これはおそらく少量でも何らかの形で生産されていたものが全く停止したと視る。その後、1969年10月までにほそぼそと工場を出たのが175台(国内向け&輸出向けの在庫処分含め)であった。

 以上のようである。実際のところ1968年5月以降に生産された思われる所謂1968年型(昭和43年型)コンテッサ1300クーペのエンジンルームを覗くと、ボルトなど随所に「トヨタ」マークの打刻を見ることが出来る。おそらく一台のクーペを販売するための不足の部品をこれまた生産が打ち切られたトヨタブリスカの余った部品(ないし補給品)を利用したものと推測する。

 このようで実質的な大量生産中止は1967年3月と見るべきだろう。そしてその後は注文生産と見たい。そして全く注文がなくなったあるいは販売すべき(輸出用の左ハンドルを右ハンドルに改造した在庫処分も含めて)コンテッサ1300が無くなったのが1969年10月と見たい。

 尚、上記のように一般には生産中止のアナウンスメントがなかったものの、1967年3月のトヨタとの業未提携後の4月に、販売側は「コンテッサ1300の販売続行」を一般向けに表明していることを付け加えておく。また、1967年以降もコンテッサ(日野サムライ含む)のレース活動にも予算が出ていたた訳であるが、これについては生産中止をしたもののコンテッサを月賦購入したユーザーなどに不安を持たせないとの意向があったと関係者の証言を得ている。

【コンテッサ1300クーペの生産台数について】

 自工会でコンテッサの生産台数の統計データを調べることは可能である。しかし、コンテッサ1300クーペについての生産台数を特定することは出来ない。また、当時の日野自動車も公表してない。

 1975年当時、コンテッサ1300クーペの愛好クラブ「PD300クラブ」(*.1)を設立した際、その頃に調査した結果、日野自動車から以下のデータを独自に得ている(10XXXXは車台番号を意味する):

昭和40年 1965年 自100002 - 至101664 (1,663台)
昭和41年 1966年 自101615 - 至103464 (1,800台)
昭和42年 1967年 自103465 - 至103828 (364台)
昭和43年 1968年 自103829 - 至103869 (41台)
昭和44年 1969年 自103870 - 至

 1968年末まで、3,868台が生産されたことを意味する。それでが1969年含め総生産台数は?1966〜68年までの総生産台数でのクーペの割合はおよそ5〜9%である。そこで平均的な数値をとれば7〜8%とみるのが妥当であり、その比率で算出すれば、推測として6台と言うことになる。

 以上から、コンテッサ1300クーペの推定での総生産台数は、「3,874台」とみるのが妥当である。

 検証として、1968年11月25日登録の車両の車台番号は103856であり(廃車証明より)、生産直後にユーザーにデリバリーされたと推測すれば上記のデータと合致する。また、当サイト所有の現存実車データでもっとも新しい車台番号が103868(1968年登録)であり、これまた検証データとなる。

 本サイトをご覧になった方で、103868以降のコンテッサ1300クーペを所有ないしご存知の方がいれば、ぜひ当サイトにご一報いただきたい(こちらへ)。

【コンテッサ1300の年式と車台番号】

 一般的にクルマの年式は車台番号とともに新しい年式のクルマとして認識される。しかし、コンテッサ1300の場合はいささか複雑であり、必ずしも一致してない。

 それはどういうことかと言うと、1967年に購入したからと言って1967年モデルではないということである。在庫にあった1965年モデルであることもあるのである。以下の幾つかの例を述べる:

  • 1967年7月登録のグリーンメタリックのクーペ:車台番号は101976。これクルマは1966年の早い時期に生産されたことになる。おそらく1年以上日野工場ないしデーラーに在庫していたのだろう。このケースは非常に多く存在し、日野が当初目論んだメタリックカラーのコンテッサは美しいカラーであるものの国産では時期的に早かったようで思いのほか日本市場に流通しなかたのである。グリーンメタリックは一例であり他色含め多くが在庫となったようである。実際、日本でよく売れたのは白系(当初はオパールクリーム:E39およびシェルホワイト:E121)であり、1966年半ばからほとんどが白系(後々、アイシーホワイト:E131が多くを占める)での生産となった。基本的に車台番号に合致した部品で構成されたクルマであるが、また残念ではあるが年式に一致した改善については多くは施されてなかった。
  • 1969年登録のワインレッドのクーペ:車台番号は102XXXである。これらの車両は輸出向け(所謂、PD400の左ハンドル)であり、やはり売れず在庫として日野の工場の屋外に長期に渡って保管されていた。しかし、ある時期、突然の雹の被害にあり、天井にダメージを受けてしまった。そこで日野はどうしたか?それは社員(並びに彼らを通じて関係者に)に破格の価格で販売、日野工場の近郊の町工場で左ハンドルは右ハンドルへ改造、PD300へ打刻変更を行い、ペイントの修復をし、20~25万円とクーペの正価の1/4程度の価格でデリバリーされた。多くの艤装は左ハンドルの転用であり、当時、町中で奇妙なクーペを目にする事が出来た。このクーペの良いことは輸出向けなので合わせガラス(ラミネートタイプ)やパッシングを備えていたこと、欠点は塗装が悪かったことだった思う。いずれにせよ、正確な数は解らないが何十台かはデリバリーされたのである。
  • 1966年4月(推定)製造のコンテッサ1300クーペL:これはレアなケースである。20台程度生産したが車台番号はデリバリーされる際に打刻された。直後に国内レーシングチームにデリバリーされたコンテッサ1300クーペLは例えば、101920であり、上記の生産時期と合致する。おそらく1966年12月に米国のレーシングチームにデリバリーされたコンテッサ1300クーペLは103308/3309であり、これは上記データの1966年度末と合致する。すならち特殊車両故に打刻しない状態で工場内に保管していたと推測する。

註:上記の内容はいずれも国内向けのPD100/PD300を基にした実車を含めた調査の結果である。輸出向けにPD200/400(いずれもPD100/PD300の左ハンドル仕様)があり、これらは現状の把握出来てないのでその実態は反映されてない。また海外でCKD生産された例えばニュージーランド生産のPD100-80XXXXの車台番号を持つクルマについても正確に上記に反映されてない。さらに同様にイスラエルやオランダでのCKDがある訳でこれが目下鋭意調査中である。

*.1「PD300クラブ」はその後、クーペのみならず日野小型乗用車に広げ、日野コンテッサクラブへと展開した。


(SE, 2009.10.24、
2010.1.19改訂
2009.11.14改訂)

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