今日ではトラック専業メーカー且つトヨタ資本の企業となった日野自動車ですが、戦後の自動車産業復興の黎明期に大型車商用車に加えて、新たに小型大衆乗用車の開発・生産・販売ヘと日本の産業発展に重要な位置を占めていました。そのためにフランスのルノーとの契約の下にリアエンジン方式のルノー4CVのノックダウン生産、そして技術習得の証しとしての完全国産化 (*.1) を行いました。その結果として、日野コンマース、そして日野コンテッサ900へと日本の自動車産業発展を担って展開がすすめられました。
今年、2011年2月は個人ユーザーならびに営業(タクシー)需要での乗用目的を狙った意欲作の日野コンテッサ900が1961年2月誕生(発表)して半世紀となります。日野初めての自社ブランド&技術の乗用目的の小型車の開発&販売の50周年を記念し、ここにその紹介&分析を逐次展開する所存です。
1964には生産打切りと日野コンマース同様に短命、その間に47,299台の生産され、海外にも販売されたこのコンテッサ900について、微力ながら当事者でもない、あるいは一般メディアでもない立場でクールにその真実に迫ってみたいと考えます。
お願い:日野コンテッサ900に関する情報はこちらまで。
(*.1) 国産化:本稿を書いている中で、当時として「国産化」と言う意味は何を物語るのかが重要なものと感じるようになりました。それは。製品(ひいては商品)を「創出」する、そして基本設計、詳細設計、同時に生産プロセスの設計、さらにメンテナンスに関するに設計とマーケティング&エンジニアリングのプロセスまでを意味しているかと言うことです。グーグルで検索してもどうも,「Domestic Production」を指してるようです。すなわち「生産」です。おそらく、「創る」といるレベルまででなく、物理的な「作る」あるいは「造る」が当てはまるようです。たかだか、「国産化」と言う3文字ですが、重く感じております。それは、単に国産化を目指した「日野コンテッサ」あるいは「日野自動車」のみならず、日本の戦後の技術導入をベースに発展する日本の産業すべてに対してです。折しもの東日本大震災では、福島原発が文明が人間社会に牙を向いたようなものです。この原因・背景では、特に技術面で同様に「国産化」という課題が歴史&展開にあると分析しております。