日野の社歴をたどると、その創業は1942年(昭和17年)5月1日に設立された日野重工業(株)にさかのぼる。更にその母体は1910年(明治43年)創業の東京瓦斯電気工業(株)となる。創業当時の社名は東京瓦斯工業で、ガス、電気とエネルギー黎明期にガス需要家のためにマントルなどを製造・販売していた。その後、電灯のエネルギーの主力が電気になると東京瓦斯電気工業と改称した。この辺のいきさつはいささか目的を異とするので別の機会に譲るとして、東京瓦斯電気工業(通称:ガス電)と云う名のもと早くも1917年(大正7年)に自動車部を設立した。そこで日野の車造りに後世、大きく影響を与えた星子 勇を紹介しておこう。
ルノー4CV及びコンテッサの開発・生産の総師であった家本 潔は1932年(昭和7年)東京瓦斯電気工業に入社した。ある日、家本は上司等に連れられて福沢一族の福沢 駒吉邸を訪問した。深い森林に囲まれた大邸宅に入ると遥か彼方から”ウォーン、ウォーン”とエンジンをレーシングする音がこだましていた。近づくと当時の高級スポーツカー”デューセンバーク”であった。当主の福沢氏は「昨日はこの車で名古屋まで松茸を喰いに行って来た」とのことで車の話に花が咲いた。
福沢氏は家本の上司達に盛んにデューセンバークの様な車を造るべきだと勧めていたのだ。ガス電は少数ながら陸軍向けの乗用車を手がけており、将来の日本の乗用車の発展を目論んでいたのである。そんな中、ただムッツリと無言の内に話を聞いていた人物がいた。
この男こそ当時、日本の自動車界で鬼才と云われていた星子 勇であった。「星子さんはデューセンバークのようないい車を造りなさいとけしかけられるものの、そんなものはやったって駄目だと、星子さんの理想は大衆車を造ることだった。日本が豊かになるにはその当時の日本の農業人口を60%から15%程度にして、工業国家にしなければとならないと、そのためには大衆車によって自動車工業をちゃんとしなければならないと云うのが星子さんの強い考えだった」と家本は語る。星子の夢は単に自動車を造ることではなく工業国家を目指した壮大なものであった。
当時、ヨーロッパではAフォード、オペルなど気のきいた乗用車が出て来てきており、総合自動車メーカーを目指すには大衆車でなければと確固たる考え方が星子の胸の中にあったのだ。結局、この考え方そのもの、すなわち"星子イズム"となって、戦後の日野の復興期の立役者、中興の祖と云われた大久保 正二に大きな影響を与えたのである。
ここで星子自身に若干触れておこう。星子は1911年(明治44年)熊本高工を卒業後、住友鋳銅所他を経て日本自動車合資会社に奉職した。その間の農商務省の実業練習生としてイギリス及び米国にて自動車並びに飛行機の技術を研修し、若くして当時の日本に自動車技術界の頂点を究めていた。その薫陶を受けた人々には橋本 増治郎(快進社、ダット号)、蒔田 鉄次(白楊社、オートモ号)等が含まれている。錚々たるものである。
ガス電が自動車部を設立し自動車の製造を着手する際、その適任者を探し求めた際、当初、国産第一号蒸気自動車を完成させた岡山市の山羽 虎夫を技術顧問にと試みた。しかし、地元に於いて更なる発明に打ち込む意向のため成功しなかった。
そこで、当時33歳の働き盛りの星子に白羽の矢が立ったのだ。「日本合資自動車と云うのは外車のデーラーだったんです。星子さんはその当時、髀肉の嘆(持っている技術など生かせないで困っていることなどの比喩)をかこっていた。それが社長の松方(五郎)さんの招弊に応じてガス電にこられた。ガス電の自動車部は星子さんが来られて本物になった」と家本は語る。
その後、ガス電は松方と星子のもとに数多くの軍用車の開発・製造、航空機エンジンを手がけ、更に小中旅客機に手が及んだ。特筆すべきことは1938年(昭和13年)5月に世界航続距離記録を樹立した航研機の設計・製造であろう。
しかしながら、星子は日野重工業の専務と云う要職にあった1944年(昭和19年)1月に激務がたたり卒然と他界してしまった。本格的国産車及び自動車工業に挑戦したパイオニアの死でもあった。星子は創業者松方五郎と共にその二人の頭文字をとり星松会として、日野では今日でも崇められている。
日野が他社に無い大型自動車と大衆車クラスの小型乗用車を製造することで待望の総合自動車メーカーを目指した原点がここにあったのである。星子の起用に見られるように、日野には技術に関し最高の人物に求め、また恵まれ、その思想を尊み、夢を実現して行くことが脈々と生き続けて伝統となっている。また、それがパイオニア精神とも言うべきガス電気質を形成したと云えよう。