上の四氏はサイトオーナーがエンスーの目線で選ばせていただいた。創業者でも経営者でもない。マネージメントとして、常に現場の先頭に立ち、日夜コンテッサのために「現実・現物・現場」で精魂を捧げたのだ。
航空工学を学んだ星子氏は、欧米を歩き回り航空産業並びに自動車産業の発展を肌で吸収した。その後に瓦斯電気工業の招聘された。日本が近代国家になるためには、自動車工業の必要性を説き、瓦斯電気工業に於いては,金持ちを相手したクルマではなく、中産階級向けの小型乗用車の量産が念願だった。2010年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り) :日本の自動車産業の基礎を確立。
家本氏(コンテッサ当時、専務取締役)は星子イズムを肌を持って継承し、戦後の日本自動車産業の復興を担い、日野で大型車開発と共にルノーの技術取得&生産技術にと奔走をした。現場で製造の要素技術開発&実装から、日野コンマースや日野コンテッサ900のデザインに自身からデザイナー達と共に粘土に手を入れた。そして日野コンテッサ1300撤退決断は氏にとって、また社員にとって、正に断腸の思いとなった。
内田氏は自ら命名のコンテッサを「輸出出来る車こそ良い車」、「自由化こそ輸出伸長のチャンス」と世界を駆け回った。コンテッサ900をタイに1,000台契約販売と行く先々で日野車を売り歩き、KD生産も勢力的に進めた。またスポーツカーに造詣が深く、コンテッサ900スプリントをイタリアで製造し、欧州並びに米国で販売へと夢を膨らませた。その後、日野1300GT(スタイリングはコンテッサ900スプリント)をアルピーヌをパートナーに完成させた。エンジンもアルピーヌ製のGR100ベースのTOHCであった。これらはコンテッサ1300セダンの販売開始に先駆けて同時並行で開発を進めていた。
鈴木氏はコンテッサ1300のためにルノーエンジンからの決別をし、国産エンジン技術確立のためにGR100エンジンの新設計に挑戦した。またチームサムライの一員となり、特に米国での競技用エンジン開発を通して、日本側の市販コンテッサへのフィードバックへと貢献していた。コンテッサ撤退後は、ジーゼルエンジンの新技術開発に傾注し、世界の第一人者となった。2011年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り) :自動車用エンジンの先進技術の開拓と先導。
宮古氏は監査役と言う立場から世界にコンテッサを普及させるために、単にクルマの生産並びに輸出を進めるだけではなく、日野のビジネスを歴史ある欧米のクルマ本来の文化への融合を進めていた。レース委員長を務めモータースポーツに積極的に関り、エリックカールソンなども巻き込みサファリラリーを手始めに、国内競技はもちろん、米国では当時の先進的なデザイナーでもあったピーターブロック氏と手を結び、米国レースでの成功と販売を計画していた。当時、日本の中で国際ビジネス且つ国際レースの世界を知る、また実践をした貴重な存在だった。
さらに宮古氏は日野のレース撤退後はBRE(Brock Racing Enterprises)への恩義からトヨタ並びに日産への関係作りに多大な尽力をした。当時、米国日産はフェアレディのレース活動に東海岸のボブシャープを手を組んでいた。しかし目に見える結果を出していたかった。氏はBREを日本側の日産に紹介をしたのだ。結果的に、日本の日産から車両&レース部品を直接BREを送り、日本側の日産の支援をベースにBREは多くのコンペティター(米国日産並びにボブシャープを含む)を相手にした。結果的にそれはフェアレディ、510、そしてZカーへの伝説を創ることになったのだ。氏なくしてはBREの日産の戦歴は創られなかったと言ってよいし、これほどまでのZカーの伝説は無かったと言っても過言ではないと思う。もう一つ、付け加えれば、300ZX時代(1980年後半から1990年前半)のレース活動にもこのBREのDNAが明確な形で継承されているを忘れてはならない。
上の皆さん(各氏の写真はいずれも1993年当時のもの(星子氏除く))は、モノづくりのハード面のQCD(品質/コスト/納期)やクルマを単に販売するだけでなく、モータリングの本来の楽しみなどソフトウエア面を熟知していた日本の自動車産業では数少ない世界レベルの「カー・ガイ」達であった。尚、上記のYE28エンジンの現場の設計技術者は日野がコンテッサ撤退後、ホンダに移籍、後のホンダのF1や水冷4気筒を開発へと、このYE28とホンダ1300のボア*ストローク比は一致する。単なる偶然と考えるべきか?
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