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歴史
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コンテッサ1300に至る日野の系譜
コンテッサ1300小史(関連イベント含め)

新・日野の夢、コンテッサに託して
1. 社運を賭けたコンテッサ1300
1.1 東京オリンピックの年にデビュー
1.2 大量に売れた麦藁帽子
1.3 発表会:トリノ発 明日のクルマ
1.4 自由化を前にした東京モーターショー
2. 伯爵夫人誕生へ
2.1 原点、星子イズム
2.2 なぜルノー4CVを選択したか
2.3 完全国産化への技術取得
2.4 ルノーとの決別:コンテッサ900
2.5 フクロウ部隊の出現
3. ミケロッティとの出会い
3.1 トリノのバーにて
3.2 コンテッサ1300企画
3.3 ミケロッティの贈り物:900スプリント
3.4消えた市販計画
4. コンテッサ1300の誕生
4.1 高品質RR用エンジンの開発
4.2 ミケロッティとのホットな議論
4.3 コンテッサ1300の完成に向けて
5. 伯爵夫人の挑戦
5.1 第一回日本グランプリ制覇
5.2 挑戦、ワークス体制を組む
5.3 新GTプロトと新エンジン
5.4 富士の緒戦を飾る
5.4 富士の緒戦を飾る
6. サムライになったヤンキー
6.1 消えた驚異の逆転優勝
6.2 レースはクルマを売る!
6.3 ピート・ブロック・プロジェクト
6.4 勝利! L.A.タイムズグランプリ
7. サムライの切り取られた歴史
7.1 「ピートの夢」実行作戦
7.2 シークレット・プロジェクト
7.3 第4回日本グランプリに向けて
7.4 悲劇の序奏
8. 終結:悲劇の伯爵婦人
8.1 BC戦争と乗用車輸入自由化の狭間
8.2 エレガンス・コンクール
8.3 意欲的だった次期モデル計画
8.4 決断のとき
検証&総括

日野サムライの車検失格について

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日野コンテッサ1300に至る日野自動車の系譜:エンスーの目から
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拡大

瓦斯電の起源:東京瓦斯工業として1910年(明治43年)に創業。当時の瓦斯燈火の良質の絹マントルを製造。(参考新聞記事文庫:東京瓦斯電気工業 航研機(航空研究所試作長距離機):
東京瓦斯電気時代の1932年、基本設計が東京大学航空研究所で開始、純粋な研究目的故、製造の引受けてにあまねく中、瓦斯電は航空機製造設計・製造の経験ある星子 勇らが中心になり、機体製造の主担当を引受けた。1936年に11、651kmの世界航続距離記録を樹立した。(写真は羽田沖)
参考資料航研機製造&飛行記録実写フェルム/山本峰雄サイバー・ミュージアム
星子 勇 氏
星子イズムの原点、1917年に瓦斯電気工業自動車部設立時に入社、戦前から日本の大衆車製造に提唱していた。2010年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り) :日本の自動車産業の基礎を確立。
ルノー提携:当時、政府の政策の下に各社は海外メーカーと提携した。日野はフランスのルノー公団を選択した。それは星子の大衆車の夢を現実にする始まりだった。 ルノー4CV国産化:1953年に始まったノックダウン生産も国産化率を上げて行った。最終的に10年に渡って生産され,1963年に実質的に生産に終止符を打った。この間、34,853台生産された。
家本 潔 氏
星子イズムを肌で継承、戦後の日本の自動車産業発展の最前線で活躍。日野の全てのクルマの設計&生産現場で陣頭指揮&決断を行う。
日野コンマース(1960年2月):
無我夢中の中での市場の先取りをした日本初のミニバンだった。しかもFF駆動である。型の簡略化のために平面を多用したが、シンプルの中に機能美を感じさせる。相当数が海外に旅立った。
日野コンテッサ900生産開始(1961年4月):
ルノ−4CVでの技術習得を期を熟し、いよいよ自社の技術を織り込んだ将来への発展に向けた「ルノーとの決別」とも言える瞬間である。
日野コンテッサ1300生産&デリバリー開始 (1964年秋):
専用積載車(TH80ベース)でデリバリーされた(1966年7月撮影)。当時のメルセデスにも似た車両があったと思う。下記のピーター・ブロックも「メルセデスのようにジーゼル大型トラックと高級乗用車を狙っていたことに共感」と言う弁をこの写真を見ると思い起こす。
GR100型エンジン
900のGP型はルノーそのものだった。ルノーとの知的資産問題と日野独自の技術開発を目指した。
内田 一郎 氏
コンテッサをはじめとし、日野全車種を自らの責で精力的に世界に売り歩いた。またコンテッサの命名者でもあった。氏は、生涯”赤”のアルフェスタであったと伝え聞く。
ニュージランドでのKD生産、欧州向けにオランダのスローベンで工場建設に向かった。台湾、オセアニア、中近東、欧州(北欧含む)、そして中南米へと、1962年から1969年までに、コンマース、コンテッサ900/1300、そしてブリスカ900/1300が16,799台輸出(1300のKD生産含む)された。少数ながら今日でも世界各地で愛好家が所有する 欧州のエレガンスコンクールで1965-67年に名誉大賞を得た。特にコンテッサクーペは4度受賞した。
鈴木 孝 氏
ルノー国産化以来、日野のエンジン(ジーゼル含む)の設計を陣頭指揮。チームサムライでレース現場を歩く。また文才は多くの著書を発刊。2011年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り) :自動車用エンジンの先進技術の開拓と先導。
チームサムライ結成:
1966年初頭、対米輸出を前提と技術熟成とためにデイトナコブラなどデザインしたピーター・ブロックを起用して、米国西海岸での日野レーシングチームが誕生した。クルマを売る前に現地文化に解け込むものだった。
YE28b(競技用エンジン)
事実上、日野最後のガソリンエンジン。1967年シーズンの日野プロトに向けての研究開発。この最終機は身を研ぎすましたクランクダイレクトの発電機&ウォーターポンプ、マグネシウムのオイルパンだった。
宮古 忠啓 氏
日野の国内外のレース活動推進役。欧米のクルマ文化を肌で知り、輸出のためのサファリや米国セダンレース参戦を実践
HINO SAMURAI - ミュールーズ国立自動車博物館
MUSEE NATIONAL DE L'AUTOMOBILE DE MULHOUSE
(COLLECTION SCHLUMPF)にて。
200台ものブガッティの実車展示は有名だ。
ミニカーの展示では歴史的に世界の名だたるクルマが鎮座する。その中に何と2台もの日野サムライプロト
(伊ポーリトイ製)があった。

【素晴らしきカー・ガイ達】

 上の四氏はサイトオーナーがエンスーの目線で選ばせていただいた。創業者でも経営者でもない。マネージメントとして、常に現場の先頭に立ち、日夜コンテッサのために「現実・現物・現場」で精魂を捧げたのだ。

 航空工学を学んだ星子氏は、欧米を歩き回り航空産業並びに自動車産業の発展を肌で吸収した。その後に瓦斯電気工業の招聘された。日本が近代国家になるためには、自動車工業の必要性を説き、瓦斯電気工業に於いては,金持ちを相手したクルマではなく、中産階級向けの小型乗用車の量産が念願だった。2010年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り) :日本の自動車産業の基礎を確立。

 家本氏(コンテッサ当時、専務取締役)は星子イズムを肌を持って継承し、戦後の日本自動車産業の復興を担い、日野で大型車開発と共にルノーの技術取得&生産技術にと奔走をした。現場で製造の要素技術開発&実装から、日野コンマースや日野コンテッサ900のデザインに自身からデザイナー達と共に粘土に手を入れた。そして日野コンテッサ1300撤退決断は氏にとって、また社員にとって、正に断腸の思いとなった。

 内田氏は自ら命名のコンテッサを「輸出出来る車こそ良い車」、「自由化こそ輸出伸長のチャンス」と世界を駆け回った。コンテッサ900をタイに1,000台契約販売と行く先々で日野車を売り歩き、KD生産も勢力的に進めた。またスポーツカーに造詣が深く、コンテッサ900スプリントをイタリアで製造し、欧州並びに米国で販売へと夢を膨らませた。その後、日野1300GT(スタイリングはコンテッサ900スプリント)をアルピーヌをパートナーに完成させた。エンジンもアルピーヌ製のGR100ベースのTOHCであった。これらはコンテッサ1300セダンの販売開始に先駆けて同時並行で開発を進めていた。

 鈴木氏はコンテッサ1300のためにルノーエンジンからの決別をし、国産エンジン技術確立のためにGR100エンジンの新設計に挑戦した。またチームサムライの一員となり、特に米国での競技用エンジン開発を通して、日本側の市販コンテッサへのフィードバックへと貢献していた。コンテッサ撤退後は、ジーゼルエンジンの新技術開発に傾注し、世界の第一人者となった。2011年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り) :自動車用エンジンの先進技術の開拓と先導。

 宮古氏は監査役と言う立場から世界にコンテッサを普及させるために、単にクルマの生産並びに輸出を進めるだけではなく、日野のビジネスを歴史ある欧米のクルマ本来の文化への融合を進めていた。レース委員長を務めモータースポーツに積極的に関り、エリックカールソンなども巻き込みサファリラリーを手始めに、国内競技はもちろん、米国では当時の先進的なデザイナーでもあったピーターブロック氏と手を結び、米国レースでの成功と販売を計画していた。当時、日本の中で国際ビジネス且つ国際レースの世界を知る、また実践をした貴重な存在だった。

 さらに宮古氏は日野のレース撤退後はBRE(Brock Racing Enterprises)への恩義からトヨタ並びに日産への関係作りに多大な尽力をした。当時、米国日産はフェアレディのレース活動に東海岸のボブシャープを手を組んでいた。しかし目に見える結果を出していたかった。氏はBREを日本側の日産に紹介をしたのだ。結果的に、日本の日産から車両&レース部品を直接BREを送り、日本側の日産の支援をベースにBREは多くのコンペティター(米国日産並びにボブシャープを含む)を相手にした。結果的にそれはフェアレディ、510、そしてZカーへの伝説を創ることになったのだ。氏なくしてはBREの日産の戦歴は創られなかったと言ってよいし、これほどまでのZカーの伝説は無かったと言っても過言ではないと思う。もう一つ、付け加えれば、300ZX時代(1980年後半から1990年前半)のレース活動にもこのBREのDNAが明確な形で継承されているを忘れてはならない。

 上の皆さん(各氏の写真はいずれも1993年当時のもの(星子氏除く))は、モノづくりのハード面のQCD(品質/コスト/納期)やクルマを単に販売するだけでなく、モータリングの本来の楽しみなどソフトウエア面を熟知していた日本の自動車産業では数少ない世界レベルの「カー・ガイ」達であった。尚、上記のYE28エンジンの現場の設計技術者は日野がコンテッサ撤退後、ホンダに移籍、後のホンダのF1や水冷4気筒を開発へと、このYE28とホンダ1300のボア*ストローク比は一致する。単なる偶然と考えるべきか?
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(SE)

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