去る7/17(日)のテレビ東京のモ−タ−ランド(これは1988年当時、以下の文面も1988年当時の時間で読むこと)は米国IMSA(International MotorSports Association) の特集であった。そして、それは現在、7/3のワトキンスグレンでIMSA史上初の5連勝を成し遂げたニッサンGTP−ZXの大特集と言うべきものでもあった。ご覧になった方も多いと思う。これを見て上記のようなタイトルを思い付きリポ−トを書いている。
この全く関係のないように思えるNissan GTPと日野コンテッサの2台の車。皆さんどう思いますか? 実はある線で結んでしまうことが出来ると言うお話しです。
今、快走しているブル−カラ−のナンバ−83のGTPの製作は、カリフォルニアのロスの近郊のエルスゲンドのダベンドルフ・レ−シングとエレクトラモ−テブ社で1984年に始まった。勿論、計画はズ−とその前からである。ある程度のアイデアから英国のロ−ラカ−ズでボディ/シャシ−がデザインされ最終的にエレクトラモ−ティブ社で実車が完成された。そしてエレクトラモ−ティブチュ−ンのVG30が搭載された。テストはリバ−サイド・レースウエイで進められた。85年のシ−ズンはクルマそのものを立ち上げることで終わったようだ。翌、86年は大分熟成したが、その後にも尾を引くブリジストンのタイア、コンピュータ制御への容赦ないノイズの問題などさまざまのトラブルに遭遇した。しかしながら、その900馬力オ−バ−の馬鹿速さは有名なものになっていた。そして、87年、初戦のマイアミで1位をものにしたが、まだそれは本物ではなく、その後予選では殆どポ−ルポジションを取るものの本戦では常に苦戦を強いられた。しかしながら、その速さはもう、ワ−クスのポルシェ、ジャガ−の比ではなかった。そんな中で88年用の改造が進められていた。それはシャシ−、ボデ−の再設計であった。
さて、ここでニッサンGTPに係わっている主要なメンバ−を紹介してみよう:
ジョン・ネップ:VG30レ−シングエンジン開発のエレクトラモ−ティブ社の社長。60年代後半、ピ−トブロックのBRE(Brock Racing Enterprises)でエレクロニクスエンジニア兼トランスポ−タ−(この時点でピ−トは未だ日野が残していったシェビ−のV8付きの日野RB車を使っていた)のドライバ−としてダットサン510及びZカ−の為に働いていた。その後、ピ−トがBRE解散後、仕事を引き継ぎエレクトラモ−ティブ社を設立現在に至る。一貫して、ニッサンに関係してきている。
ダン・ダベンドルフ:ダベンドルフ・レ−シングの経営者でカ−ナンバ−83のZカ−ドライバ−として有名。IMSAの4階級制覇(GTP,GTO,GTU,GTA)を狙ったが最後のGTPで残念ながらドクタ−ストップ。86年のシ−ズンまでは自ら自分達で開発したGTPのテストからすべてのレ−スのドライバ−までこなしていた。更に驚かされることにダンはレ−シングチ−ムは本職で無いのである。ホビ−の延長線上なのである。本職はヒュ−ズ・エアクラフト社のR&Dのエレクトニク技師である。早い話、サラリ−マンなのである。社長兼ドライバ−兼レ−シングカ−デザイン&製作兼風洞デザイン&製作兼コンピュ−タ作製&プログラマ−兼サラリ−マン兼家族持ちと7つの顔を持ったス−パ−マンである。そんな訳でレ−ス界のクラ−ク・ケントとも言われている。長い間ジョン・ネップとレ−スビジネスのコンビを組んでいる。
ジョン・モ−トン:現在、ジェフ・ブラバムとともにGTPをドライブしている。ジェフ(かの有名なジャックブラバムの息子)の影に隠れて日本では余り表に出て来ないが米国では人気があり超一流ドライバ−である。ピ−ト・ブロックがシェルビ−時代、ファブリケ−タ兼ドライバ−として採用され、BRE設立後、同様にファブリケ−タ兼ドライバ−としてピ−トに引っ張られた。そして、ピ−トの下で510とZ-Carで70年代前半、伝説の3年連続のチャンピォンに輝いたのである。これが本当にニッサン車が米国で売上を大きく延ばした理由である。何時も物静かなジョンは人間的にも魅力のある人である。
トリバ−・ハリス:レ−シングカ−のシャシの設計の神様。古くは日野コンテッサ、日野サムライ、トヨタ7(トヨタ製でなくピ−ト・ブロック作でJP6(またはJ6)と呼ばれるもの)などBRE関係やシャド−、ミラ−ジュなど先進的な設計は殆ど手掛けている。
鈴鹿 美隆:自身設計製作の風洞実験を下にZTPのボデ−設計と強烈なダウンフォ−スを生みだす。日本時代、イスズ退社後、ピ−トブロックに憧れ当時のHPE(ロバ−トダンハム、山西氏経営のスピードショップ)に入社、ストックカ−の製作や須永氏のレ−シングコンテッサのメンテナンスなどを経験している。その後、ダンハムと共に米国に移りBREに入社し、ジョン・モ−トンの510やZ-Carの為に米国内を転戦した。その後、インディ−カ−のフレスビ−等を担当し、ニッサンGTP開発当初より参画現在に至る。
等々。以上がニッサンGTPに係わる主要なメンバ−のすべてであるとよいだろう。さて、これでもうお分かりだろう。そう日野時代のピ−トブロックに遡るのである。見えないところで太い線で結ぶことが可能だったのです。ピ−トブロックコネクションと言ってよいだろう。そんなことが分かったところで、今後のニッサGTPの活躍を見ると更に面白くなることでしょう。
さて、今年のニッサンGTPはなぜそんなに速いのか? 新設計のオリジナルシャシ、安定したコンピュ−タ制御下のVG30(と言ってもオリジナル部分は跡形も無くなった)、リファインされた空力性能、そしてもっとも大きな安定要素はグッドイヤタイアへの変更(今まではブリジストン)...等が挙げられるだろう。昨年は米国ニッサンも予算を削りたがっていたようだが、今年の好調を見て日本のニッサン本社も車をほしがっているようである。やはり、技術の熟成と言うものはそれなりの時間が必要なのである。ダベンドルフ・レ−シングとエレクトラモ−テブ社もこのGTPをものにするまで5年ほどの時間がかかっているのである。しかし、それは以前からの長期間のノウハウの蓄積があって出来ることであり、日本の経験よりも組織的な技量を求める社会では至難のわざと思う。さて、昨年来、ニュ−カ−の設計は進んでおり、多分来シ−ズンには出てくるものと思われる。それはマ−チでもなくロ−ラでもない完全なオリジナルになる筈である。
今後、この快調なニッサンGTPは70年代におけるBREによる510/Zカ−の栄光を再び米国において作る事だろう。叉、日本でも報道されることと思う。その時には、このようなバックグラウドもあったのだということを思い出していただきたくリポ−トを書いてみた。