丁度、今から2年前の2008年11月、日本ではまだワンメイクの旧車クラブなんかがまだ無かった70年代に立ち上げたコンテッサクラブ(当初はPD300コンテッサクーペカークラブ)を辞することを決意しました。このようなことをやるのも早かった、また辞めるのも速かったと、おそらく自身の性格だと思うものです。その際に、クラブの会報に寄稿したのが以下の挨拶でした。
それから早2年を経過しました。その後も自分としては何も変わらず相変わらず慎ましい「コンテッサ人生」であります。日野コンテッサは今だ愛すべき(それともその逆?)伴侶となっております。さて、ここでその際の文面にありますが、「回顧録」とまでは行きませんが、クラブ立ち上げ当時を綴った思い出の文面(2005年3月作成,一部改編)がありますので下記にご紹介いたします。
旧い内容ではありますが、日本の旧車文化へのご参考になれば幸いです。
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【日野コンテッサクラブ退会の挨拶&お知らせ】
2008年11月15日をもって、「日野コンテッサクラブ’」退会をすべくここにお知らせ申し上げます。以下は、退会に際しても皆様(PD誌を通じ)への挨拶とします。
クラブ創設期前からおよそ37年の長きに渡って半生以上を共にした集まりでした。いずれもボクにとって素晴らしい思いでで一杯です。ここ数年はホームページに始まり部品問題などその運営について「見えない組織」との「葛藤」がありました。ボクの残りの短い人生を考えると、「寸進尺退」な議論と共にするはあまりにも時間がありません。そのような訳でここで自ら「クラブの卒業」を決断しました。何事にも始まりがありこのような「終わり」もしかりです。
今後は一個人として大好きな日野コンテッサを慎ましく楽しむ所存です。クラブを通じで親交を深めさせていただきました皆さまには今後とも相変わらずお付き合いいただければ幸いです。 また、部品を必要とされている皆さんへの提供、修理の課題&アドバイスなど、今まで同様変るものでありませんのご安心下さい。
尚、今後も超私的研究機関:HinoSamurai.orgを通じ、ライフワークである「日野研究」を展開して行きます。その中で歴史の一ページとして新たに「日野コンテッサクラブ回顧録」として私的な思い出や見解・経験を第三者として述べ、日本の旧車コミュニティの健全な発展に寄与出来ればと考えております。
以上をもちまして退会の挨拶&お知らせとさせていただきます。
江澤 智(2008.11.15)
【PD300コンテッサクーペカークラブ(現日野コンテッサクラブ)立ち上げの思い出】
2005年も早桜の季節となった。日野コンテッサクラブも33歳となるのだろうか?その間には紆余曲折や危機を目にし、今日に至っている。最近ではおそらくクラブが出来上がる黎明期のことを知る人も少ない。昔話をするつもりは毛頭ない、しかしこんな風に出来たということは、伝えておいた方が良いと思う。皆さんに顔を会わせてない身としては肩身が狭いが、こんな背景だったと記憶の片隅にでも入れていただければ幸いである。
<クラブ結成以前のクラブの存在>
日野コンテッサクラブは元々「PD300コンテッサクーペカークラブ」の名称で発足したことは皆さんご存知であろう。実はその前に日野コンテッサに関するクラブが創られていた。しかしゴーストだったのかも知れない。それは1971年の後半であった。ボクはその当時、メタリックモスグリーンのクーペとともに静岡県三島市の三島大社のすぐ近所の場所に住み、沼津ICに近い職場に勤務していた。
東京に3日遅れのモーターファンの中の記事に目が入った。何と日野コンテッサに関するクラブ設立の案内であった。発信人は神奈川県川崎市であり、仮にA氏としよう。会費まで書いてあった。早速、手紙(今の様に電子メールもない、電話もボクのアパートは無い)手紙を書いた。その後、A氏のお住まいに伺うことにした。確かその近辺の某電気メーカーの独身寮であった。
話をしてみると、A氏はかなりのコンテツ病のようで、ボクは話にはついて行けなかったと言うのが正直は第一印象だった。GRは馬力がないからと,日産のA型に載せ替えるとか、メーターパネル関係を全部電子化にするとか雲の上のような話だった。
A氏に入会金と会費を支払ってその場を後にした。その後の手紙のやり取りがあったが、集まりもなく時間が経過した。
<八王子近辺の動き>
一方、その当時ボクはYE28エンジンが捨ててあると言う情報をもとに、日野市近辺の徘徊を繰り返していた。今,考えればそんな時間がよくあったと思う。残念ながらYE28は発見出来なかったものの八王子のS車体に行き当たった。S車体は土地がら日野自動車のカタログ用のクルマのペイントとか日野自動車をよく知る立場にあることを知った。
そこのオーナーと色々話をし、それからの何年かはボクのクーペのエンジン交換とか足回りの改造とかをコンテッサに未熟なボクはずいぶんお世話になった。そこには近隣のコンテツオーナー、今思えば暴走族に間違えられそうな好き者が週末に時間つぶしをしていた。新井さんと出会ったのものそこであり、1972年だった。
今考えると共通した話は、「コンテッサクーペ」を今後もどう維持したらよいかの一点。その当時すでに日野からの支援は皆無になっていた。現実に東京日野の葛西デポに部品を買いに行っても「何もありません」と倉庫の中を見せられる有様だった。S車体に出入りしているコンテツのオーナーに日野の社員も何人かいたが、コンテツを明確に好きで自慢していたのは新井さんくらいだった。他の多くは社内で「コンテッサは禁句」になっているとかそんな言い方で、寂しい限りだった。コンテッサクーペ維持が話題の中心となり、自然に「コンテッサクーペ」のクラブ結成の話が持ちあがり始めた。
<混沌&つばぜり合い>
クラブについて、すでに先行していた川崎のA氏、そしてS車体出入りの連中の両二つがあったのだ。そんな中、ある日A氏からクラブ断念の手紙がボクの支払った現金とともに届いた。電話をすると、A氏のもとに八王子から赤いツインカムに乗った方が来られ、クラブをやるなら一緒に(おそらく八王子のメンバーに入れ?)やったらどうかと,言うことらしい。A氏は結果的にやる気を失ったらしく、ご自身でのクラブ結成&運営は諦めたようなお話だった。両者間でどんな話があったかボクは今でも全く知らない。いずれにせよ、クラブ結成は八王子組のみとなった。
<クラブ誕生:第一回ミーティング、しかし。。。>
好き者だけが利害関係なく集まっていれば話は簡単だった。1973年の夏、集まろうということになった。一応「クーペのクラブ」結成&第一回ミーティングだった。その時に声を掛けた全員が平日の夜、調布市の甲州街道沿いのスカイラーク(今で言うファミレスのパイオニア、調布店は由緒ある一号店である。残念ながら今はない)、愛車で駆けつけたのは、福生の広岡さん、青梅の三吉さん(当時、新潟)、三鷹の阿久津さん、八王子の新井さん、尾沢さん、立川の西原さん、調布の石井さん、大田区の羽藤さん、横浜の青木さん、そしてボク(江澤)の10人だった。(写真1)
(写真1)記念すべき第一回ミーティング(調布スカイラーク)、
ボクのグリーンメタリックのクーペを囲む。
左から,三吉、尾沢、羽藤、石井、阿久津、江澤、西原、新井、青木、広岡。
写真撮影は当時のMPS(モーターファンフォトサービス)。
お決まりの自己紹介、そしてボクを含めてS車体出入れの連中が口にしていた部品の件が話の中心だった。日野にどうのこうのと言うよりは、自分たちのアイデアで流用したり何とかなるのだと(結果的にこの精神が現在に継承されていると思う)、そしてツーリングなどと夕食そっちのけで時間はあっという間に過ぎた。確か、「PD300コンテッサクーペカークラブ」にこだわった名称もこの時だった。そして会長は我々若い連中でなく、人生経験の長さと常識人でもある阿久津さんにお願いしたいと言うことになった。
終了後は当然即席ツーリングとなった。調布ICから国立ICまで列を成して走行、八王子&立川組はその場で家路に向かった。東京に戻る連中は勝手に走行と、こうなると飛ばすヤツはそれなりにと、競争意識も加わった。かなりのハイペースだった。ボクの後ろにピッタリとついていた当時のポルシェ・ホワイトをペイントしたシャコタンクーペは、ここぞとばかりアット言う間に調布IC方向に消えて行ったは、今でも記憶に鮮明だ。実はそのクーペ、ドンガラ状態にパイプフレーム&ピローでチェリーのフルチューン・パワートレイン(A型1300cc)をミッドシップに載せていたのだ。
さてその後、クラブ運営はどうかと言うと、当の言い出しっぺは新潟営業所勤務だったためか一向に進展しなかった。何度か新潟に電話してお聞きしたが「その内やります」の繰り返しで一年以上を経過した。一応クラブ結成はしたが、実は何も起こってなかったのだ。まッ、皆で何時かまだ集まるだろうと八王子組は楽観していた。
<PD300クラブ活動へ:第二回ミーティング>
ボク個人は折角集まったし、誰しも待っていることが気になった。そこで新潟に再三連絡、1975年の年が明けてだろうか、恐る恐る「こちらでやるから任してもらえないか」と切り出した。幸いにもご本人も自責の念があったのか、ある時期オーケーとなった。
そうなったらすぐ集めるしかない。早速場所と日時を決定し、手分けして連絡が始まった。時は1975年4月、場所はクラブ結成をした思い出の調布のスカイラークである。レストランとの事前の打合せが候をそうしたのか、日曜日にもかかわらず裏の駐車場は我々コンテツに貸し切り状態だった。(写真2)
(写真2)誰もが待っていた集まりになった。ここに写り切れないコンテッサがまだある。
第一回の出席者は全員集合したことは当然だ。新たに高田さんを初め、遠くは静岡勢と人数も増えた。ミーティングの内容は、クラブの趣旨を明確にし、賛同を得ることと、会長&役員の選出、そして今後の計画だった。
クラブの趣旨については、独断と偏見でそのために用意した内容は,お決まりではあるがツーリングとか走行会、部品の安定確保など。そのお手本として当時は今のように旧車のクラブなんてないので、CCCJとか参考になるものは少なかった。しかしCCCJはちょっと格式が高すぎるしと、ボクの本音は旧い時代のJMCクラブ(旧いJMC参照)なんかであった。そう社会的なポジションを持ち、走る(それもスポーツとして)ことを楽しみ、会員の親睦があることである。結果的に、身近な九段の東京トヨペットに行き、トヨペットクラブの案内書をいただき、参考として当日見ていただいた記憶がある。
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(旧いJMC)
JMC:日本モータリストクラブ黎明期の会報。JMCは日本アルペンラリーで有名。この会誌によれば当時3000人の会員(すごい!)、しかも日野ルノーオーナーは340人となっている。CCCJとは違って、こちらはガンガンとクルマを走らし、また大衆車も多くあった。とにかく、CCCJなどのような豪華絢爛見せびらかしでもなく、当時のカーメーカーによくあったお仕着せのヤワなものでない、クルマをどう(本気に)楽しむかについて魅せられたものだ。 |
会則については、これまた参考になるのはない。上記のトヨペットのものと、JMCを頭の中に浮かべながらクルマだけにしたくなかったので、何と我が家の町内会規約から大分パクることにした。今あるかどうか知らないが本人結婚/第一子誕生お祝いや事務局を会長宅なんかはそこにあったものだ。これらはまた独断と偏見の成せる技だった。そして会則趣旨にあるような、クラブ行事として、「会報の発行」、「ドライブ会」、そして「コンテッサクーペ整備研究」の三つを掲げ、特典は「部品の安定確保」と「マシントラブルのメンテナンス」とした。
さて、事前の打合せ通り、会長選任も阿久津さんで満場一致となった。そして8月の箱根ミーティングを約束し、スカイラークでのミーティングを終了。後は、有志でツーリングにと。調布から代々木に向かい,首都高速を経由して、用賀出口のレストランで解散。
<第3回ミーティング>
ミニマムな会則も出来、会費の徴収させていただき,まがりなりにも「PD300コンテッサクーペカークラブ」の基礎が出来始めた。会務は会長の阿久津さん他3名(羽藤、三吉、江澤)だった。そして会報の第一号も出来上がった(会報 1.号参照)
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(会報 1号)
記念すべき第一号会報。阿久津さんとボクの手書き原稿をハサミとノリで張り合わせたものだ。しかしお互いお世辞に奇麗な字とは言えない、皆さんには迷惑をかけた。でも昨今のパソコン文化にはない何かが感じるのではないだろうか。 |
当時、阿久津さんは毎週末のように松戸のボクの家にお寄りいただいていた。ご自宅が所沢なので恐縮ではあったが娘さんが隣町の柏に嫁いでいたこともあり、白いクーペを駆って毎週のようにお出でになり、とりとめのない話ついでに打合せをし、柏へと向かって行った。また、大田区の羽藤さんも色々手を割いていただいた。でももっぱら彼とは話をすること以上に、あちこちを(お互い爆音を奏でながらかなり派手に)つるんでいたというのが実態だったかも知れない。
第3回のミーティングは当然、まがりなりにも「走る」イベントとした。今では事前に警察の許可を得なければならないと思うが、先輩カークラブの例にもある「エコラン」を決行した。それもボクの大好きな(地元のようなものだったので)箱根に決めた(芦ノ湖一周ツアー参照)。
コマ図を創るためにボクと羽藤さんは彼のコンテツで箱根へと事前の下見に向かった。彼のコンテツはまだ軽かったころの「L」だったせいか、それともエンジン絶好調なのか、ターンパイクでボクのコンテツはサードでなければ登らない場所を難なくトップでも加速するのには参った。これもここではどうでも良い話だが。
そんな準備をして、8月の箱根ターンパイク・大観山駐車場で集合をし、芦ノ湖一周をし、箱根峠の日石スタンドを終点に70kmのエコランとなった。この日は新たに浜松のコンテツ大先輩、鈴木 隆さん(ルノーから歴代の日野オーナーで当時の雑誌にも登場。当時でも若くなかったと思うが自己紹介では「信号GPでは絶対に先頭、それがコンテッサだ」と温和な紳士もはばからなった!)一派も参加、総計15台のエントリー。エコラン優勝はそんな鈴木さんで15.1km/リッター、山坂道なので大したものだ。表彰式は沼津IC近くのレストラン・トレビで行った。(写真2参照)この日のミーティングはドライバー誌(1975年10月5日号)に1頁ではあるが「永遠の“伯爵婦人”を愛する男たちの集い」として取り上げていただいた。
(写真2)第三回ミーティング、東名沼津IC側レストラン・トレビにて。
手書きの看板が如何にも懐かしい。
その年の秋には再びドライバー誌(1976年1月5日号)に「国際エレガンス賞に輝くRRの名車、コンテッサクーペ大集結!」として大々的なグラビア特集で取り上げられ、「PD300コンテッサクーペカークラブ」は全国デビューと相成ったのである。その後はもうみな皆さんも良くご存知だろう。「Old day is good day」の旧い話はこの辺で閉じよう。
以上の旧い時代を書きながら、次のようなことを念いいだいた。ボクはミーティングにもう出てないし、今は何もしてない、墓場の影からの言葉だと思っていただきたい。
ただの好き者の集まりもすこし大勢になればそれなりのルールが必要だろう。しかし、発足当時、なぜクラブに足を運ぶのだろうかとよく考えたし、そんなことについてよく議論していた。
やはりそれは普段我々は会社組織や顧客と言った商売をしている中に居る訳であり、そんなことから隔絶したしがらみのない、しかも上下関係もない、お互い敬称無しで「さん」付け(外国ではファーストネーム)で呼び合える雰囲気を求めていたのではなかろうか?しかし、今はどうだろう。これはコンテッサクラブだけの話でなく、世間一般論でもあるが、何かピリピリ感を感じさせる。
そう、会社組織のようなルールが知らない内に芽生えているのだろう。ある人が言っていた。「ぬれ落ち葉乾けば燃え上がる」と、昨今のNPOについて皮肉ったものだ。それは、会社人間が会社組織を離れNPOを創っているが、多くは会社組織のしがらみとか方法をそのまま引きずっており、本来の目的から離れ、そこに居るためのルールを作りたがるとか肩書きを得たことで仲間意識が芽生えて安心感(安堵感かも)を得る。
人が集まればルールが出来る。しかし趣味のクラブなんかはそんなものは最低限あれば良いのではないだろうか?
最近英国で実験されていることがある。それはある街の中の信号機を含む道路標識を全部取除くことである。すなわちルールを撤廃するのである。この狙いは何か?クルマ優先になり、すなわち強者優先のルールに成ってしまい,ルールが新たなルールを作り、交通事故の原因がそこにあると分析された。今度は人間同士(歩く人、クルマを運転する人)がアイコンタクト(目で合図。昔はみなそうだった)で相互秩序を保つことになった。これは将来に向けて相当なチャレンジではあるが、一人一人のモラルを変えなければならないところが本質である。これは今のところ成功のようだ。問題は外から来た人達にまだ慣れが出来てないことである。
この話を考えると、上記のNPOとか最近の旧車クラブ(コンテッサクラブ含む)の運営がオーバーラップする。会社組織の延長の様なルールだの小学校のような風紀委員ではあるまい。要は、JMCの話に戻ってしまうが、クルマをどれだけ楽しむかだけの話である。そこにはかったるいルールを持ち込む必要はない。アイコンタクトで十分ではなかろうか。
コンテッサクラブはここ何年か「伝統ある」などとあちらこちらで語られているようだが、陽に当たる花だけに目をうばわれることなく、その根っ子も確実につまんでいただきたいと日頃考えていたのでここに書かせていただいた。
(江澤 智、2005.3.31)
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