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寄稿
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ロダンとヒノサムライ
なぜRRか? (E)
「L」の検証
日野GR100エンジン「擬似検証」
日野GR100エンジン「擬似検証」(続)
コンテッサ900スプリントに念うこと
Nissan GTPと日野コンテッサ
デンバーのスピットファイアのシニア夫妻に学ぶ
THE HINO SAMURAI By Ron Bianchi (E)
74の系譜 - Knowledge Transformation (E)
Contessa Sprint - コンテッサ・スプリント
Contessa Sprint - コンテッサ・スプリント(その2)
Contessa Sprint - コンテッサ・スプリント(その3)
Contessa Sprint - コンテッサ・スプリント(その4)
Contessa Sprint - コンテッサ・スプリント(その5)
日野コンマースの話題
ルノーとの比較
米国ロード&トラック誌にコンテツが登場!
伯爵夫人の香り:日野コンテッサ900スプリント(極上の時間)
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日本に於けるルノー日野 4CV スペシャル (E)
PD300コンテッサクーペカークラブ(日野コンテッサクラブ)の思い出
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ロダンとヒノサムライ


 サンジェルマン通りをセーヌの流れに逆らう方向に曲がって、ごたごたした細道がアンバリッドにぶつかってしまいそうなは時、ロダン博物館がそこにある。大きな門の前に、遅い開館を待つ何人かの人達がいた。

 晩秋の午后、日の光は丁度その門の内側にあって表はうすら寒い塀のかげがのび始めていた。そのかげの切れる所に丁度たっている一人の小柄の女性が妙に私の心をひいた。

 開かれた博物館は大きな庭であった。手入れが行き届いた庭のあちこちにたたずむロダンの像は、日の光でその彫りを一層深くきざんで私と対面した。静かであった。建物に入る。一つ一つの作品に私は触れた。建物は意外に大きく、ロダンの息付きは次第に深くなった。私はロダンが私なりに段々解って来るような気がした。その昔ニューヨークのメトロポリタン美術館で始めて接した「接吻」の強烈な印象は、それなりには違っていなかった。しかし、老婆の姿にも美を見出したのだという誰かの解説は、私には違っていた。老婆は汚くみにくかった。ロダンは接吻を彫り、抱擁を彫り、愛撫を彫り、そして病とあわれにも老衰した姿を彫ったのである。それは刹那刹那の人間を極めてドライに即物的に把え、ロダン自身のそしてすべての人々の人生と運命とをそのままに見つめようとする強烈な意思であると感じた。この意思は静を過ぎ動を感じ波を超えて”地獄の門”に集大成されるのである。

 先刻の女性との会話は、こんな空気の中で極めて自然に始まった。いくつかの像に所々張り出している奇妙な出張りは、像を作る時のフレームワークの端部を切らないままにしておいたもので、作品の構成を見る上に大変重要なものであるのだと、彼女は説明してくれた。意志を具現化するためのフレームワークが、その構成が、そしてロダンのたどった彫刻の過程が、彼女には見えているということに私は驚き、そして彼女の勉強に頭が下がった。

 この彼女が、ヒノサムライとその事件を知っていたのに全く仰天したのは、既に傾いた初冬の日がマロニエの梢にまとわりついて、眠りにつこうとしているかのような静かな庭に再び降りた時であった。

 「ヒノサムライは大変美しい車なのに、運悪く車検で失格して、レースに出られなかった車でしょう。私は知っていますわ」と彼女は云った。

 1966年、当社のレーシンググループは富士スピードウエイで優勝を果たしたヒノ・プロトのエンジンを、次年の富士グランプリに備えて、その玉生に全力を投入し、一方カルフォルニアのレーサ、ピーターブロック氏はそのエンジンを搭載する流麗な車の完成に精魂を傾けていた。しかし社の方針によって、このレースへの参加が突然中止され、1967年のグランプリでは、ブロック氏は自身でチューニングしたエンジンを積んで作り上げた車をもって個人の資格で参加したのだった。私は彼の友人として会社から一日の休暇をもらい、富士レース場に出掛けたのだが、ただピットにもぐってエンジンの調整のみを受け待った。車検の不合格騒ぎの時もサムライは個人の参加であるので、変な誤解を招かないため、私は唯ピットにもぐっていた。所がこの私を審査員の一人であるH先生が見つけて、車検場にも顔を出さないで無責任極まると大声でなじった。

 ピートとの友情からしても私は矢も盾もたまらず飛んでいきたかったし、また普通ならば当然そうすべきであることは判っていたのである。確かに私が車検に立会えば、ピータの英語に代わる日本語によって車検のトラブルはなかったかも知れない。そうすればこの事件が今こんな形で異国で語られることも無かったであろう。しかし昨日迄の日野レーシングチームの私が、今日個人になることには出来ないのである。私はそこにいてはいけない立場なのである。私は何も云えないでただ頭を下げていた。

 所が、私はもう一人の人にも見つかってしまった。それは日野のレースドライバーチームのリーダであったS氏である。このドライバーチームのおかげでこの前年8月のレースではヒノ・プロトが優賞出来たのであるが、今回は日野チームとしてでなく参加されていたのである。彼もまた私を面罵した。

 「このレースには立派なエンジンを提供するからと云って我々の船橋レースへの出場を中止させておいて、何の挨拶もなしにあんた、何をのこのこ、ここに出て来てエンジンをいじっているの!」

 半年前、彼は彼のチームの作戦上どうしても船橋で好成績をあげる必要があるので、八月のレースで優賞したエンジンを是非借してくれと土下座して私に迫った。それは奇しくも八月レースの戦勝祝賀会を終えたブリンスホテルの駐車場でのことであった。私は、そのエンジンが未だレース後の解析調査が終わっておらず、この調査無くしては次の勝算が立たなかったので心を鬼にして彼を蹴ったのだった。

 レース活動の中止を宣言した日野としては、今レースエンジンの提供は出来ないのである。今私がいじっているヒノサムライのエンジンはレースエンジンでは無くコンテッサのエンジンなのだ!

 しかし私に弁明は許されなかった。私は再び頭を下げるしかなかった。1967年の富士グランプリ、我々が心血を注いたエンジンと、そのエンジンの搭載を夢見た米人ピータブロックの不世出の傑作「ヒノサムライ」は運命の渦に巻かれて、前年の「ヒノ・プロト」の栄光から想像もできないように、その日空しく、そして静かに、富士に背を向けたのだった。

 私は既に遠い昔に去ってしまったあの流麗な「ヒノサムライ」と、富士のピットでの車検騒ぎのための徹夜と、美しかった朝焼けを思い浮かべた。その赤さは丁度今、この博物館の池に映える夕焼けのように赤くそして水面のように千切れていた。

 作品には、彫刻でも自動車でも、運命がある。しかし作品の譜系の底に流れる意志と哲学とは貴重であらねばならない。

 そして今私がたっている日野のエンジンの譜系の端において、私達は先輩の意志を見据え、それから学び生かさなければならない。そして作品のフレームワークの出張りは切り落としてはならないとしみじみ思うのである。

 所で、異国にあって、彼女が何故ヒノサムライをくわしく知っていたのか?そしてロダンのあとはどうなったのかについては、別の機会にゆずることにしたい。

大きな門の前に、遅い開館を待つ何人かの人達がいた….。
(幸か不幸か彼女は人かげで見えない!)
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ロダンの集大成“地獄の門”
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「ヒノサムライ」コンテッサの1300ccエンジンを搭載
サインはピーター・ブロック

本ページへのコメント&意見はこちら迄 (実名表記にて)

(鈴木 孝、東京都国立市、2004.9.10(改訂)、日野社報51年11月号No.202(オリジナル)、当時、氏は日野自動車第四研究部長)

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