第31回 東京モーターショー 1995展示に向けて - 外観は適切に対処...
我がコンテッサ (BRE・チームサムライ・コンテッサ1300) にとって記念すべき出来事は、「第31回 東京モーターショー 1995」において、テーマ舘「モータースポーツの世界」で日野自動車の歴史上の代表として各社の代表的なレーシングカーと共に展示に供したことです。
展示のためにチームサムライの本来のカラーに戻しました。そこで当時のペインター、Dave Kentさんにカラー見本を作っていただきました (画像右上)。
氏曰く「白よりも白い白」とか、南カリフォルニアの碧い空のもとでピュアなアメリカンレーシングホワイトになります。
東京モーターショー 1995、クルマいじり中断、そしてリノベーション決断!
上記の1995年10月の「第31回 東京モーターショー 1995」出展は、日野自動車の広報担当者から前年度の1994年秋に打診を受け、出展への決断をし、早速、段取りなどの打ち合わせに入りました。日本最大の国際イベント&国際ブランドである日野自動車の展示とあって、緊張をもって進めました。
この個体を入手後の1977年に施した塗装カラーは白&オレンジであるものの、米国当時のものとは異なるということはその後のリサーチでわかっていました。すなわち、1977年の塗装色はよくある「なんちゃって」カラーだったのです。これではいけない、展示するレベルではないと判断し、当時、BREでこの個体にペイントをしたDave Kenntさんにお願いをし、上記のように色を再現してもらいました。
およそ1年を経て、よくある話ですがショー会場持ち込みのぎりぎりのタイミングで一応完成とし、幕張メッセの会場に搬入しました。そして2週間の展示、何度か現場に足を運びました。大勢の皆さんにご覧いただき、指をさしたり、そしてカメラに収めておりました。我がコンテッサ、いや日野のレーシングカーは他の名だたるレーシングカーに負けてないと感じました。
ショーが終わり、日野自動車の広報担当者から、「展示は大好評だった。他社に負けないレーシングカーが日野にあったことを示せた。しかも、綺麗な本物の個体であり、他社と一線を画していた!」と、お言葉をいただきました。これまでの1年の苦労が吹っ飛んだ瞬間であります。
実は1995年4月、20数年のサラリーマン生活に終止符を打ちました。つまり、独立宣言であり、その6月に自分の会社を立ち上げました。前年度の1994年後半から準備などで奔走していた時期でした。そんなことと並行していた思い出多き東京モーターショー展示のプロジェクトでした。
現実には、独立に際して自分として決断というか覚悟をしていたことがありました。それはこの先、自分のビジネスに専念、ついてはクルマ趣味を中断するということでした。自分たちで立ち上げた日野コンテッサクラブの役員も1995年4月の総会をもって辞退、また、各種のイベント参加や雑誌社の取材などもすべてお断りしました。
クルマ趣味中断は正解であり、1年365日、1日24時間とよく言いますが、自分がやりたかったビジネスに集中できました。一生のうちでもっとも楽しい時間だったと思っております。若さもあり、数日、都内の事務所に泊まり込むこともめずらしくありませんでした。
約5年を経た2000年、もうそろそろいいかなと、クルマ、すなわち我がコンテッサをいじりたくなりました。週一、土曜の午後、数時間、息抜き程度を目標としました。
1995年、せっかく外装をきれいにしたのから、まだ手をつけてない下回りを綺麗にしたいと思いました。そこで以下の画像のようにアンダーパネルのクリーンアップを軽い気持ちで取り掛かりました。その当時、知られ始めた「Por15 Rust Preventive Coating」のブラック、!クォーター缶を入手、作業をすすめました。
事前のリサーチでPOR-15のラストフリーはこの作業に最適と目論んでいました。しかし、実際に塗るというかコーティングというか使ってみた結果は自分として「❌」であり、処理したアンダーカバー3枚は「没」としました。なにが「❌」というと、巷によくある野外の建造物や水タンク、また走りもしない屋外展示の蒸気機関車のような感じだったのです。すっきり感というか潔さ良さが全く感じられなかったのです。目的は正しいのでしょうか...単に錆を避けるというだけで自分の考えとは一致しなかったのです。
2001年1月、ビジネスで米国に出張しました。画像はその際にカルフォルニア州ロサンゼルス南のPomona Swap Meetで拝見したMGのエンジンベイ&シャシーを見てビビッと!これだと思いました。自分の思い描いていたものが浮き彫りになりました。よくあるクロームだらけでなく、実にクリーンなイメージで全体感のバランスが取れており、クルマの維持に必要なことだけをしているという感じでした。それ以来、この画像を毎日のように眺め、自分の目指すコンテッサの原点になりました。
下回り全般、錆止めなど施していたものの画像のように実に醜い状態でした。生気が感じられません。当然です、何せ、この個体は1966年後半、南カリフォルニアで改造されて以来、何も手を入れてなかったのです。これら醜い状態をしばらく眺めていたら、年明けて、2001年あたり、おもむろに方向性がみえてきたのです。「リノベーション」の決断です。それは「レストレーション」でも「プリザベーション」でもありません。この際ですから「刷新」をすることでした。
リノベーション開始 - ビジョン、そして戦略が重要!
「リノベーション」、よくある「改修」ではなく、「刷新」であります。「ビジョン」はこの個体を自分の趣味あるいは人生の一部として楽しむにはどうするかということであり、それは「見てくれ50%、でも走って200%の感動!」であり、走るコンテッサを目指すことでした。
具体的なイメージとして、当時あった「パリ-北京ラリー」の妄想でした。今でもよくある大手イベント業者主催の雲の上のような「北京ラリー-パリ」ではなく、大いに興味をさそったのは「有志をつのって助け合いでパリから北京を目指す」とでもいうか、それは大きなサポートもなくひたすら20~30台がダンゴになって苦楽を共にしてパリから北京を目指す普通の人&クルマたちの冒険旅行のようでした。
オフロード走行を前提とした車高を上げ、タイヤもそれなりに大径。ホイールにワンオフ製作の「American Racing Equipment TORQ-ETTE」パターンのコピーをイメージ!これらはあくまで妄想です。
「リノベーション」開始後、走るレベルの具体的な目標は画像のように当時の「パリ-北京ラリー」に耐えうることに目標を置きました。
実現性は別として大いに夢を見ながら進めました。また、HPにこの画像を載せたらルノー4CVで単独で「パリ-北京」走破を目指している欧州ルクセンブルクのの冒険家 (?) からもコンタクトをいただきました。
次のように、「リノベーション戦略」を打ち立てました:
そんなこんだですすめた内容について、画像を中心に以下のようにまとめてみました。日野コンテッサ1300クーペをご自分の手を汚しながら現代車に負けないような走りを見ざしている皆さんすべてにお役にたてれば幸いです。また、自分自身の備忘録としました。コメント&ご意見を歓迎します。
リノベーションの各プロセスの詳細:基本的事項&各部位
ひとまず完了
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制作中
未着手
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