日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)
1.3 発表会 - トリノ発 明日のクルマ
(In Working)
1964年(昭和39年)の9月15日の市販を前にし、9月1日(火)、2日(水)、東京品川プリンスホテルに於いてイタリアから来日したミケロッティ氏も同席し、発表会が開催された。続いて、9月4日(金)、5日(土)には大阪の大閣園にて、そして全国各地へと進められ、好評を博した。の同時に9月1日の全国紙に大々的に以下の広告が打たれた。
《コンテッサ1300》誕生!
格調高いトリネーゼ・スタイル 長時間のハイウエイ走行にもビクともしない本格派》
- “流麗なボディ・ライン、斬新なルーフエンド、サイドを引き締めるフルガード・バンパー....簡潔な中の力強いタッチは、カーデザインの先端をゆくトリネーゼ・スタイルの決定版!”
- 伝統あるリア・エンジン方式
- 5ベアリング・クランクシャフト使用
- ロール率〈カーブでの安定率〉=2.95
- 室内の広さはこのクラスの最大
- 5人乗り/55馬力/前進 3段〈4段仕様あり〉
- クーペは “4人乗りプライベート・カー。バケット・シート、ダッシュボードなど室内調度もおもいきり豪華にした本格的クーペ。ディスク・ブレーキ、ツイン・キャブを装備、時速145Km”
- 日野工場渡し現金価格(いずれもスペアタイヤ・標準工具付)
- スタンダード:¥560,000
デラックス:¥650.000
クーペ:¥850,000
デザインを担当したジョバンニ・ミケロッティ氏の『夢が実現しました。日野自動車に協力して、私がデザインしたコンテッサ1300が日本中の皆さんに親しんでいただける.....光栄です。』と言うコメントも付け加えられていた。
発表会などで当時の取締役社長、松方正信は以下の点について語った。
- デザインは、世界的に有名なカー・デザイナーであるイタリアのミケロッティのもので、3年、5年後の乗用車のスタイルを想定した。
- 10月のパリ・ショーにも出品。ミケロッティもこの夢の車として、日野のコンテッサ1300に十分な自信を持っている。
- 発表前にオーストラリアで十分なテストを行ない、悪路のなかを毎日110キロ以上のスピードで連続何十時間走っても何の支障も起こさず、これならば大丈夫だという確信を得た。
- 1300ccクラス程度の小さい車ではリヤエンジンのリヤドライブが理想的だといわれているが、この車はリヤエンジンの最高をねらったもの。
最大課題である輸出については、
- 輸出にも力を入れ、さしあたって年産の25%を輸出したい。来年は30%の輸出目標。
- 主な輸出先としては、南アフリカ、オーストラリア、タイ、フィリピン、イスラエル、マレーシアなど。その他ヨーロッパ諸国やアメリカなどにも輸出を伸ばす方針。
生産面や設備投資については、
- 当面の生産計画は月産2500台として、1年後には3000台の月産目標を達成したい。将来は4000台から6000台も不可能ではない。
- 本年度(昭和39年)の設備投資は日野工場に30億、羽村工場に10億と、だいたい40億。設備の完成により月産能力は大型車2000台、小型車4000台となった。
新車発表会 (日野ニュース39-10 No.90より)
コンテッサ=格調高き伯爵夫人に合わせて日野の社員はおそろいの白いブレザーで応対した。
これだけでも当時の金にして百万円をオーバーしたとか。
(Newed 2014.8.11)
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