「L」の検証 - コンテッサ1300クーペ L


 鈴木さん(愛知県西尾市在住)がクーペLを昨年遂に完成し、しかも何とロードライセンスまで取得された。サムライのクーペLの姉妹車を所有する(写真1)ボクとして心からお祝いしたい。この鈴木さんのLは80年代末、まだロサンゼルスにあったころから行方を見届けていた。本稿はエールを送る意味でも書いてみた。コンテッサ1300クーペLについては多くの事実が知られてないのではないかとボクは思う。単に「L」、すなわちライトウエイト(軽量)だけではない多くのナゾに秘められた事実がある。これらをボクなりに検証して見たい。

【Lの起源】

 世の中にLを車両名称に与えられたのは一般車ではコンテツとポルシェ911Lぐらいではないだろうか?そんなことを出来てしまうエネルギーが当時の日野自動車のどこにあったのだろうか?

 1966年の1月に2台の特別製のクーペがチーム・サムライのブロックレーシングエンタープライズ(以後、BRE、所在地はロサンゼルス空港脇のエル・セグンド、オーナー兼メカニック兼ドライバー:ピート・ブロックPeter Brock)、ドライバー:ボブ・ダンハムRobert Dunham)、他)へと米国西海岸でのセダンレースの素材として船出した。

 1965年末の契約の際のBREの要求は、FIAのホモロゲーション(公認)にはこだわらないものの極限まで軽量化したクーペを望んでいた。しかし、その時点でそのようなもものは望むべくものではなく、結果的に簡素化した艤装と900ベースのバケットシートの900Kg弱の市販クーペの特別製であった。BREではこの標準ボデーをベースにSCCAセダンレース仕様に仕立て上げた。1966年のシーズンは、結果的にエンジンとシャシーの熟成だった。最終的に1966年10月のLAタイムズGPのセダンレースに於いて、打倒ミニを果たし勝利を得た。

 このBREのプロジェクトと並行して、国内レースにも標的を置いた重すぎるボデーの軽量化の検討がとにもかくにも行われていた。

 その仕様(*1他)は以下のようなものだ:

  • 競技用目的である。
  • クーペのスタンダードの類別とする、しかし前照灯は4灯とする。
  • 車重は極限まで軽量化する(公称830kg、レギュレーションで815kgまで可能)。
  • 高速走行のためにシート形状を変更。
  • 運輸省登録&販売に於いては旅客運送目的とはしない。
  • 等など。(仕様参照)

【Lの製造】

 1966年当時(夏前と推測)、ある時間、一般のボデーの生産ラインを停止し、「L」を造るためにプレス含めて、必要な部分に0.9mmに代えて0.7mm厚を流し、20台の軽量ボデーを作り上げ、 軽量化対策の艤装(左ハンドル車含む)を施したのだ。そして、一般車両と別管理され、おそらく多くはシャシーナンバーも打刻されず、工場のとある場所に保管されたと推測する。

 これらは1970年前後、ボクらの仲間うちで流れていた噂でもあった。20年を経た後のオールドタイマー誌「悲劇の伯爵夫人」連載の際に、日野の当時の担当者から話を直にお聞きする機会があった。その噂は当事者の証言と大きく異なることは無かった。

 そしてカタログも何とちゃんと制作されていたのだ。4ページのカラーカタログ、R124-66.7(LP)は1966年7月に制作&印刷されたものだ。20台のLはこの前に生産されたことに間違いない。たった20台のためにカタログが制作したことをどう評価するか?「販促」が目的ではなく、「存在」が目的だったと分析する。

【Lのオーナー】

 さてこの20台の「L」はどのように市場に出ていったのだろうか?

 まずは国内の所謂ワークスである塩沢商工へは、当時の資料によれば1966年9月の末、4台送られた。2台はGRエンジンでレーサーとして活躍した筈だ。コンテッサの販売を完全に中止した1968年には、更に残る1台はトヨタのV8をミッドシップに搭載したレーサーとなり、ある時期グループ5として富士で参戦していた。もう一台はGRエンジンの場所にV8を搭載したデルダンディツーリングに化けた。

 一般ユーザーにも流れ、多くはプライベートなレーサーが購入された(写真2)。また、コンテツの中古が多く出回っていた1970年のある時期、ボクは四谷のG自動車(日野乗用車専門店)で1台のLがあったことを記憶している。あの「L」は、今どうしているのか気になるところである。

【Lのバリエーション】

 もし当時のトヨタとの合意がとれて、コンテッサを継続生産&販売をすると言う前提が必要なのだが、それは生産中止を1966年10月に決定する以前、非常に短い期間検討されていた。おそらく、8月14日の富士での日野プロトの勝利、また奇しくも同じ日の米国リバーサイドでのBREの初勝利(後に取消となってしまったが)もあり、社内的に更なるレース活動拡大に行く手阻むもの無しの雰囲気があったのではないかと分析する。

 ノーマルエンジンのLに加えて、クーペSL("S"はスポーツ)としてYE27、日野プロトに搭載されたYE28とは異なる言わばノーマル仕様のツインカムエンジンであり、その時点ではまだ80馬力に満たず、市販にはあと15~20馬力以上の努力が必須だったものの5速ミッション、強化大径ブレーキ&対向型ピストン(住友ダンロップ製、Dunlop MK2系)装着と言ったものだった。これは実際、おそらく熟成中の現物もあり、その気になれば翌春にこぎ着けることが出来ただろう。SLの想定販売台数はLと同様20台だった。

【Lとチーム・サムライ】

 すでにお分かりのように米国で1966年に実績を残したレーシングコンテッサはすべて重い標準ボデーにほかならなかった。

 マーケティング上1966年度の米国西海岸でのセダンレースの結果は大成功であり、1967年での西海岸を中心にしたクーペ販売も夢でなくなったと予感させるものであった。そこで「レースはクルマを売る」のセオリー通りに、コンテッサ生産中止の嵐の中にも関わらず1967年度のプロジェクトが日野の中の一部にあった。

 1967年レース活動に向けてのBREの要求は4台の軽量化クーペとFIAのホモロゲーションであった。ピートとボブに2台、2台のスペアであり、その1台は左ハンドルでドライバーをつのる、所謂金を払ってチームカーでレースをする人をつのる、残る一台はスペアであった。(*2)

FIA 1441

FIA-1441(1967年1月認可)ホモロゲーション・シートの表紙。この中にある写真の「L」がPD300-1001920。

 この要求書にあるクーペがすでに生産が完了していた「コンテッサ1300クーペL」だったのだ。

 実際には、シャシーナンバーPD300-103308と3309を標準クーペの生産時期のそれに矛盾のない連番の番号を打刻した2台(共に右ハンドル)の「L」が1966年末ないし年明けにBREのもとに送られたのである。BREではこの2台の「L」を1967年のレースシーズンに向けてチームカーの製作並びに初期テストを進めた。日野側ではシーズン開幕に間に合わすべく、FIAホモロゲーションを極短い期間に注力することになる。

 このFIAのホモロゲ(*3)にはいささかの疑念がある。当時のグループ2に必要な1年間1,000台生産が現実的ではない。書類上では1965年4月(実質的に標準クーペの販売開始)から1966年3月までにそれが達成されている。すなわちその期間に1,000台もの「L」が誕生していたと解釈しなければならない。しかもシャシーナンバーの開始はPD300-100061である! 事実上、標準クーペの初期ロットである。運輸省への届け出の「L」の生産開始はPD300-1001920からであり、しかもそれは1966年の春以降と推測する。

197710 Cheffy BRE Parts

 チェフィ・カレッジにあったワンオフの特製クランクを含む大量のコンテッサのレース用部品(1977年10月撮影)。
 これら部品は後に、Southern California Import Dismantlers社へと、そこの
クーペL (PD300-103309) の資産価値アップのために売却 (等価物々交換) された。学内の実験室に行くとそこにもコンテッサの部品が床にゴロゴロしていた。
 この写真の奥には未使用のトヨタ2000GTのツインカムもあった。最近 (2015.7) の調査では、1967年のBRE&トヨタ契約以前にトヨタからBREに事前送付されていたエンジン単体であり、コンテッサの部品と共にチェフィ・カレッジに渡ったと分析する。

 いずれにせよホモロゲの取得を済ませ、BREも4台のLによるチームカーは実現しなかったものの、まがりにも1967年の春には戦闘準備が整ったのだ(写真3)。しかし、日野のM監査役を中心とした当事者達が望んだクーペだけは存続させる且つ米国輸出を図ることは、トヨタ戦略の下では存続出来るものではなかった。

 米国でのレース活動は消え、その財産は様々な処理が、部品の多くはチェフィ・カレッジ(Caffey Colloge、ロス郊外のオンタリオ)に寄贈(これは税金の関係らしい)された。

 PD300-103308の「L」は1967年9月のサンタバーバラでのレースを最後(おそらく米国での参戦はこれのみ、エントリーはボブ)に日本に帰国した。ボブ山西 喜三夫が数少ないが富士のレースに参戦し、また第1回東京レーシンガーショー(1968年3月)に展示した(写真4)。その後のある時期にボブは、当時の極東商会の社員であり、個人でもコンテツセダンでレースをしていた友人に売り渡した(この時期、オートスポーツ誌に売却広告もした:写真5)。その方は3308を当時の日野の関係者の手を借り、レーサーそのままの状態で2シーターとして新車登録を手にしたのだった。規制がゆるやかな昨今と違って大変は努力だったと考える。その後、1976年の末、縁あってボクが譲り受け、現在に至る。当時、その方がおっしゃった「このクルマは警察から何度質問を受けるか分かりませんヨ」を今でも鮮明に記憶する。

 ピートがドライブすることになっていたPD300-103309は、1968年末と推測するが、3308の様に帰国せずに、Southern California Import Dismantlers社(ロサンゼルス郊外、解体・引取屋兼投資目的の輸入車専門のビジネスみたいなもので、ポルシェ356など長期キープした後、有望顧客(ローカルや日本など)に売りさばく、3309もそんなものの一つと推測)に引き取られた。そこのオーナー、Daleの話によれば彼が何度かレーストラックに持ち込んだと言っているが、結果的にその社に長く鎮座していたと推測する。その後、1980年代末には日本への販売の打診があり、多くの業者が手を出した。コンテッサクラブの中でも複数の話が横切っていたし、その一つとしてカーマガジンの中の当時の広告は400+万のプライスタグだった。結果的に3309は鈴木さんの手に落ちた。その当時、この3309の行方が気になっていたが、鈴木さんのところで落ち着くところに落ち着いたとホッとしたのを今でも記憶する。

【Lのドライビング】

 新車当時のフィーリングは知る由はないが、BRE製の「L」を持つ身から簡単に述べて見よう。純レーサーであることのメリット&デメリットを除いて、一言で運転がし易いということである。それは軽い故、発進&加速に無理がない、止まるも同様だ。標準ボデーで加速したい場合、一速でかなり慣性をつけないと、二速の加速につながらない。それが全くないと言ってよい。Lの場合、2速(富士用)で気持ち良くすぐさま100km/hに到達、止まるも同様、瞬時である。当時、友人のサニー1000クーペ(今でもボクは欲しいと思っているベストなライトウエイト・クーペ)を乗った際の軽快さのようだ。なぜ日野が最初からこの重量でコンテツを世に出さなかったのかと思うものである。

 数少なく生産された「L」も運良く当時以上の状態で奇跡的に2台共に残存する。鈴木さんの「L」は当時以上に体力強化を図られたようで今後の活躍が楽しみである。ボクのLも当時以上なスペックにすべく手を入れている(決してレストアではない)。完成したらボクの身の程に合った走れるイベントに再び参加させたい。

 以上は、複数の当時の関係者の話、様々な角度から入手した資料、また実車をもとに、分散してしまった事実をボクなりの整理&推測で一つのソースとして纏めてみた。

【纏めた後の雑感】

 サニー1000クーペのことを書いたが、その当時としてクルマづくりの違いを大きく感じた。すなわち、コンテツは時代が古いと言うことだった。また、1969年に出た三菱コルト、特にAIは73/77mmロングストロークの1300cc、ボデーもコンテツサイズ、しかし車重は810kg、馬力は88HP!これは明らかに新たな時代に突入したことを意味した。羨ましくも思ったものだ。日野がコンテッサマークIIをもってしても、それは小手先のグレードアップに過ぎず、市場では戦力不足を招いたと推測する。しかし、今となってはそんな比較の必要はないだろう。コンテツは1964年発売のクルマだ。その時代での技術の比較であり、その後新しいコンテツの歴史に無いのである。その1964年当時では不可能だった技術を、今新たに自分達で詰め込むことが出来るのだから。

【参照資料】

  • 資料1:日野PD300型(類別追加)、一部構造変更届出資料(対運輸省(当時))
  • *2:1967 Racing Season for BRE (R. Dunham)
  • *3:FIAホモロゲ資料、FAI Recognition No.1444
  • その他参照資料:日野デーラー・ノート(生産&出荷時期とシャシーナンバーの対応を裏付ける)

【関連ページ】

(SE, 2004.2.28, Original)
(SE, 2016.7.22, Updatedl)

picture 1

写真1:第31回東京モーターショー(1995年)、テーマ館「夢と冒険を乗せて走ったくるまたち」にて。ボクの「L」は日野の依頼でショー出展と相成った。写真の搬入の際に、日野の関係者も「ちゃんと走る」コンテツに熱い眼差しだった。その後の会期中はおそらく数えきれないくらいシャッターを切られたことだろう。ボクは出展に向け、外装を総剥離で再度塗装を小川さんにお願いをした。色は正確を期すために、当時の塗装職人のデーブ・ケント(Dave Ken: BREの一連のコンテツ並びにヒノサムライのペイントを含む名だたるレーサー&カスタムカーを造ったロスの鈑金&塗装職人、今は天国で相も変わらず酒浸りかも)に色見本を作ってもらった。その白は、彼曰く「白よりも白い白」であった、その意味は、南カリフォルニアの深い紺碧の空の様な下でのみ、その「白」が映えるのである。小川さんもその白を見本から創るには結構苦労されたようだ。 タイヤ&ホイールは温存していた日野プロトにも使われた当時のファイアストーン・スーパースポーツ・インディをスティールのワイド(7J、コンテッサ7に使用した)に装着した。

picture 2

写真2:当時のプライベータの「L」、須永選手の車(CG1969年1月号より複写)。この当時、このクルマのシャシー&パワートレインは、結果的にボブの計らいでBREそのものだった。シャシーは鈴木さんのそれと同じローダウン、エンジンは日野のベンチでもテストされたBRE製ストローカーの1,446cc(72.2X88.4mm)、そして日野製富士用5速ミッションだった。ビニール製のリヤサイドウインド、テールレンズは赤く塗った電球と壮絶な状態で、公認期限ギリギリまでホンダ1300と善戦していた。このクルマは次のオーナーが想いあまって八つ裂きにして解体屋に葬ってしまった。全く残念だ。

picture 3

写真3:1967年シーズンへのBREのチームカー。この写真は1967年の3-4月にBREのオフィス(後によく知られたBRE510や240Zレーサーがこの場所で誕生する。ロサンジェルス国際空港近郊のEl SegundoのOregon St.,(当時から長い間レーショングショップの聖地でもある)で撮影されたものと推測。理由は2台の車両がまがりなりにも完成していること、且つそこにはヒノサムライプロト無いこと(4月末に完成)。
手前の73(ピート)が3309、55(ボブ)が3308である(共にローダウンシャシー)。
その次の58が標準ボデーベースのスペアカー(左ハンドル)、そして日野KMバン(エンジンはシボレーのV8に換装)、これら2台は現在も米国の愛好家が所有。

196805 MF 1st TRCS

写真4:第一回東京レーシングカー・ショーにて

picture 4

写真5:当時のオートスポーツ、1969年1月号にあったボブの広告より。場所は富士のピットと推測する。右手が3308のL。左手のオープン・コンテツ(俗名:コンテッサ7)はロサンゼルスタイムズGPの優勝車(標準ボデー)である。因にスペシャルのエキパイは小川さんの手曲げである。その小川さんが四半世紀以上を経て、米国帰りのレーシングLの姉妹車全ての鈑金&塗装を行うとは誰が想像出来ただろうか?


本ページへのコメント&意見はこちら迄 (実名表記にて) 。
Any Comments to here would be appreciated (Please Use your one name)


Your local time is  where you live.

全ての内容は、固有に記載のあるものを除き所有権は当サイトオーナー、江澤 智に帰属します。如何なる形式での再利用、複製、また再配布はくれぐれもご注意ください。
All contents, unless otherwise stated are copyright Satoshi Ezawa. So not reuse, redistribute, or duplicate in in any format or way. All pages are not sponsored or endorsed by Hino Motors, Ltd.
全てのページは日野自動車のスポンサーあるいは裏書きのあるものでありません。
© 2004-2018 HinoSamuri.org  - ヒノ・サムライ研