【永遠に作業中】
これでは大いなる造語であります。何はともあれ、自ら創る、それを必要であるとことから考えついた言葉です。考えついたのはおよそ七年前 (2011年) の正月の年賀状にその年に向けてのキャッチフレーズとして創出したものです。
その背景になるものの一つは、長い間のライフワークとして日野自動車研究があります。その中でフランスの論文 (2000年前後、仏文) のMonorisは、日野自動車のルノー4CVの国産化について、克明に記述しています。その中に技術指導に数年に渡って常駐いしたルノー社の技術者、Jardon氏の言葉に、「日本人はクリエーションとコピーの判断がつかない民族。新しいものを取得すると、それを自分が発明したがごとく解釈する、…」という表現があります。
おそらくこの現象は、日本に長らく根付いてきたものと分析します。多くのイノベーションが外国からやってきました。日本はその新しい技術を解釈して、独自の大量生産へと結びつけてきました。これは良いのか悪いのかという問題ではなく自ら創造をして来たかと大いに疑問を感ずる部分です。
このようなことを考えるか中で最近、まことに興味深い書物を目にしたそれは言わずと知れたCar Graphicsの1967年2月号号のにある小林 章太郎さんの時評にある「デザインの独創性」である。以下がそのポイントの抜粋です;
=================================================
二年前の夏、英国に4週間滞在した時のことである。一日シルバーストーンで行われたヴィンテージ・スポーツカーのレースに行った。レースの合間に、サーキットの食堂でまずいサンドイッチで昼飯をとっていた時、一人の老人が近ずいてくるなりこういった。「日本じゃ、いつ3リッター・ベントレーをつくるのかね」「?」一瞬の後、これが痛烈な皮肉だと悟った私は反射的にいい返した。あなたに見せたいものがある。ちょっと外へ行かないか。何だろうとついてきたその英国人を、駐車場に止めてあった私のホンダS600のところまで案内すると、私はいった。われわれは3リッター・ベントレーはつくらなかったけれども、ミスター・ホンダはこんなすばらしい車を創造した。わずか600ccだが3リッター・ベントレーと同じくらい速いんだ、と。因に、3リッター・ベントレーとは英国人がもっとも誇らしく思っているヴィンテージ期の代表作であるが、日本人は何でもマネがじょうずだから、今度はいつ3リッター・ベントレーをコピイしてつくるのか、と皮肉ったわけなのだ。
ホンダを見せられたその老人は、フーム、なかなかいい車だなとか何とか言いながら、こそこそと人ごみにまぎれて消えてしまい、私はその時は大いに溜飲を下げたのであるが、時につれ、自責の念に似た気持が感じられてならないのだ。
考えてみれば、明治百年このかた、日本は英国をはじめ諸外国のデザインを、ずいぶん有断、無断で失敬してきた。艦も飛行機も戦車も、最初の1台だけを買えばあとはそっくりコピイしてつくり、特許料も払わぬという例はいくらでもある。今日ではさすが露骨なコピイというのは少なくとも大メーカーの製品にはなくなったけれども、アイデアをそのままちょうだいして換骨奪胎した例は、残念ながら今日の自動車界にもまれではない。デザインの独創性を尊重するという点で、西欧諸国は非常に峻厳であり、日本ははなはだルーズである。長年にわたるコピイスト・ジャパンの汚名は、容易にぬぐい去ることのできるものでないことを、私はこの一老英国人の皮肉によっていまさらながら思い知った。
英国に行って驚いたことは、戦前のダットサンはオースティン・セヴンのコピイだとか、オースティンのネームプレートだけを換えてダットサンとして売ったのだかいうナンセンスが、もっともらしく多くの人々によって信じられていることであった。むろん事実無根であって、事情を説明すればみなすぐ了解してはくれたが、やはり日本人として大いに考えさせられた。
彼らとてかっしてひとまねをしないわけではない。どうしてもその必要が起これば、最後の手段としてコピイする場合もあるが、それ時は率直にデザインをちょうだいした旨を名言する。日本でよくやるように、ひとのデザインをそっくり盗用し、あたかも自分のアイデアのごとくふるまうことは、英国ではもっとも唾棄すべき偽善として軽べつされる。
英国の自動車メーカーというのは、無神経というか開けっぴろげというか、工場を見たいといえば快くどこまでも見せてくれ、写真撮影も自由である。ロータスやプラバムではF1を組んでいるところまで見ることができた。新型車の図面や詳細なスペック、材料などについてのデータさえ、一般への発売以前に技術雑誌などへ公表される。BRM、H16エンジンの図面などは、実車はレースに出るはるか以前に公表されていたほどです。ひとつには自身があるために、またひとつにはデザインのオリジナリティを尊重する風土だからこそ、こうしたフランクな態度がとれるのであろう。日本の極端な秘密主義とは全く対照的である。
コピイストを軽べつする英国人は、同じ理由により想像力を非常に高く評価する。たとえば、アレック・イシゴニスのミニである。彼が水冷4気筒エンジンを横置きにし、クランクケースにトランスミッションを一体化するという独創的な方法を使って以来、同様な主要を用いた車がいくつか現れた。そのひとつ、プジョー204などは設計の時点が新しいということもあって、性能的にはすべての点でBMCの車を上回っている。だからといって、イシゴニスの作品の本質的価値は一向に下がりはしないのである。全く新しいものを創造する力と、すでにあるものをリファインしていって、オリジナルよりすぐれたものを仕上げる技術とでは、やはり前者の方が次元が上だからだ。
われわれ日本人はどうも器用するぎるきらいがあって、創造するよりも既成のものを高度にリファインする技術に長じているように思える。それは長年の教育制度の欠陥などにもよろう。それと同時に、デザインのオリジナリティを尊重する気風が社会的にもっと盛んになり、法律的にもそれが保護されるるようにならなければ、日本人はいつまででたってもコピイストの汚名を返上できないだろう。
=================================================
と、いうことで、氏は何十年も前にボクが感じていることを書かれていました。よく考えてみれば、仕事で米国に行き始めた70年代後半、同じような質問をアメリカ人から受けた記憶があります。その当時はその意味の背景を今のようにくみ取るレベルではなくただ聴き流していたのでしょう。
そんなことがベースで、2011年当時、「自創」、すなわち「自ら創造する」となります。
(続く)
(Original, SE, 2014.1.1)
(Updated 2018.1.2)
本ページへのコメント&意見はこちら迄 (実名表記にて) 。
Any Comments to here would be appreciated (Please Use your one name)