右の画像はモーターマガジン誌の1956年 (昭和31年) 7月号の表紙です。ここにはフランスルノー公団のRenault 4CVのセールスツールだったポスター (当サイトオーナーの分析) の画像が使用されています。石畳に佇むルノー4CVとルージュを強調したレデー、そして瀟洒は建造物と何とも言えないフレンチな構図です。
ルノー公団の当時の4CVのカタログ (Google画像検索) を見ますと、多くは傍に女性、そして背景にランドマークとも言える象徴的な建造物や自然な野山が多く使用されています。見ていてもその美しい光景に興味が惹かれてついつい想像たくましくなってしまうものです。
このルノー公団のカタログに代表されるセールスツールの制作手法は、ルノー日野4CVとしてノックダウン生産を始めた日野自動車のプレスリリースやカタログなどのセールスツールに確実且つ明確な影響を与えていると分析します。
日本ではフランスルノー公団のそれと同様に、女性とランドマーク (Landmark) を組み合わせたカタログなどがぞくぞくと登場しました。
何十年も前のそれらの画像を見ていると、その場所はどこなのだろうか?多くはランドマークですからその場所は比較的簡単に判明します。では、その場所のどの辺りで撮影したのだろうか、実際にそのポイントに立ってみたいなんて深入りをしてしまうのは当サイトオーナーだけではないでしょう。
当サイトオーナーが毎年少量制作している自前のカレンダーに当時のカタログの画像と現在のその場所を撮った画像を並べることを企画しました。それは、「Hino Cars with eternal Landmark from ADs (and Now) - 日野のクルマ(広告から)と永遠の名所旧跡 (そして今は) 」として2011年度のカレンダーでした。副題は、「People’s Memorial Places with Favorite and Fantastic Hino Cars, and Never Change(素晴らしき日野のクルマと人々の思い出の場所、それは今も変らず)」としました。当時のランドマークと現代のその地を自分の目で見て、現場でそこに日野のクルマがあることを想像、イメージすることは実に楽しいものです。
以下のその画像となります。
【箱根、大観山、ターンパイク 大観山駐車場近く】
1957年当時のルノー日野4CV PA57のプレス向けにキットの写真と思われます。
4CVと女性、そしてランドマーク、この場では風光明媚な箱根からの富士山の設定になっています。正にルノー公団の手法そのものです。
4CVを駆って、ドライブそしてピクニックを楽しめるようなクルマを持ち生活をエンジョイする、そしてその価値を喜ぶ、今でいうエクスペリエンスを表現したのではないかと考えます。
右は同じ場所と推定する小田原からターンパイク (旧称) を登りきった大観山駐車場の一角です (1971年8月撮影) 。
カメラの遠近感はだいぶ違いますが、雲に隠れた富士山、手前の諸々の山並みなどからホボ同じ位置と推定します。
箱根ターンパイクのwikiによれば、開通は1965年 (昭和40年) ですから、上記の4CV撮影の場所へは、箱根町経由だったのでしょう。
今は、コンクリート張りの駐車場で4CVの写真のような自然に溶け込んだエクスペリエンスは無理でしょう。大観山の駐車場の空調の効いたリッパなMAZADスカイラウンジでコーヒーとケーキを味わいながら同じ角度から四季折々の自然を楽しむのが現代流でしょうか!
ちなみに右の画像は、MAZADスカイラウンジからのもです (2016年11月撮影) 。
【靖国神社 第二鳥居前から 東京都千代田区】
右の写真がHino Todayと呼ばれる国外への英語でのPR誌 (1964年) からのものです。
ここでは女性はおりませんが、1963年型日野コンテッサ900がランドマークとして東京都千代田区の靖国神社 (wiki) とともに撮影されています。
おそらくここでの強調すべきは靖国神社の大鳥居とあったと推測します。靖国神社が主体ではなく鳥居をもって、日本というものを前面に出したものと考えます。世界的によく知られたイメージとしての神社 (Shinto sharine) を利用したものと推測します。
現代のその地は右のようです (2010年12月撮影) 。
光景的には、木立の成長がありますがまったく変化が無いように見えます。左の灯篭も前にコンテッサ900を駐車させれば時代を正に遡ったようになります。
(参考:グーグルマップで見る)
【カルーゼル凱旋門 フランス、パリ市内
(French Histrical Landmark Arc de Triomphe de Carrousel, Paris)】
右の写真は1964年9月、日野コンテッサ1300のパリショーでのデビューに際して配布されたプレスキットからのものです。
フランス、パリ市内、ルーブル博物館前のカルーゼル凱旋門 (Arc de triomphe du Carrousel) を前に撮影されたものです。新型日野コンテッサ1300セダンとフランス女性、そしてランドマークとお決まりの構図となっています。
このプレスキットにはこの画像以外にもエッフェル塔 (Tour Eiffel) 、ブローニュの森 (Bois de Boulogne) 、モンテリサーキット (Autodrome de Linas-Montlhéry) などフランスのランドマークを多用した写真が含まれています。
日野コンテッサ1300のフランス進出に際して、日野自動車はフランス人の業界のエキスパートのコンサルタントを雇い、極めて現地の文化に対応すべく進められたようです。
しかし、日野コンテッサ1300はフランス当局のホモロゲ (型式) を得るのに2年余り要し、それは結果的にコンテッサ1300市場撤退前提のトヨタの業務提携締結後となったのは実に皮肉な話でもあります。
右は現代のカルーゼル凱旋門です。この地は一度、訪問したいと何年も望んでいました (2010年6月撮影) 。
この場に立った際は、上記の日野コンテッサ1300のフランス進出に際し、それを努力された日野の人たちの思いなど心が騒ぎ、胸が暑くなったことを今でも鮮明に記憶しております。(コンテッサの聖地への旅:パリ散策)
(参考:グーグルマップで見る)
【1964年東京オリンピック、体操の競技場、東京、現代々木国際スタジアム(第二体育館)】
右の画像は、1964年 (昭和39年) の東京オリンピックに向けて建設された当時の国立競技場をバックにした同時期に新発売となった日野コンテッサ1300セダンです。
国立競技場という日本の新たなランドマークを利用したものです。遠くには控えめに続いて発売予定のクーぺはサブミナリ効果 (あるいは、Sumliminal stimuli) を狙ったのでしょうか?
日野待望の自前の技術の日野コンテッサ1300は市場も大いに期待をしました。また東京オリンピック直前に開催された東京モーターショーでは、日野自動車の展示担当者の士気も非常に高く、トリネーゼスタイルのこのコンテッサ1300は今後、10年このデザインで大丈夫と語っていたのは今でも脳裏の片隅にあります。
さて、右の画像は現代の状況ですです (2010年12月撮影) 。上の写真とまったく同じポイントに立つことは周辺の変化で難しいものになっていました。また、建造物もかなりリモールディングされていました。
しかし、右の画像の位置に立ち、日野コンテッサ1300はここに立っていたのだと想像を膨らますには十分なものです。
【フランス、ノルマンディ州ディエップの古城博物館を背景に (French Memorial Landmark Castle Museum in Dieppe, Normandy)】
右の画像はフランス、ノルマンディ州 ディエップの古城博物館 (French Memorial Landmark Castle Museum in Dieppe, Normandy) を背景にした日野スプリント1300GTです。1967年の欧州自動車市場向けの年鑑 (Yearbook) に登場します。
このモデルの開発は日野コンテッサ1300発表前の1964年 (昭和39年) 初頭、イタリアのミケロッティスタジオとフランスのアルピーヌエンジニアリングと契約を締結し、ボデーデザインはミケロッティ、シャシー&エンジン、そして最終組立はアルピーヌが担当しました。
写真は完成後、ディエップのランドマークである古城博物館は背景にしたものです。ディエップは、アルピーヌエンジニアリングのホームタウンだったのです。
右の写真は現代の風景です (2010年6月撮影) 。上の赤いスプリントが鎮座した場所と推定できる場所に立ち、そのポイントを訪問出来た記念撮影をしました。 (参考:コンテッサの聖地への旅:デォエップ)
向かいのカジノホテルは増築され3階建から4階建に変身していました。ここでもこの日野スプリント1300GTを欧州市場への展開に努力した日野の人たちの心意気を感じながら感慨深く付近を散策しました。
(参考:グーグルマップで見る)
【レーシンガー製作の聖地 米国カリフォルニア州エル・セグンド市(ロス国際空港近郊)】
右の画像は米国カリフォルニア州エルセグンド市 (Carifornia, El Segundo) の日野自動車の米国レース活動の契約先であるBRE社でのものです。おそらく1967年 (昭和42年) 初頭に撮影されたものと推測します。
この小さなエルセグンド市は、ロサンゼルス空港の隣に位置し、航空&宇宙産業の盛んで、また半径50マイル内でレーシングカー制作の必要な物資は調達できるという立地条件の良いロケーションです。
これら車両は1967年シーズン向けに開発されたものです。新たに制作された軽量ボデー車、2台が主力戦力として投入する計画でした。
しかし、時すでに遅し、1967年4月の日野とトヨタの業務提携の実行を前にして、日野自動車としての1967年の米国レース活動は頓挫しました。日野自動車とBREはこのレース活動 (及び、トヨタ車を含み、すなわちRTX、2000GT、そしてプロト開発 (JP6) ) 継続すべく、その意義をトヨタに説得しましたがそれは無理からぬことでした。
右の写真は現代の同じ場所、建屋です (2005年5月撮影) 。この地区には半世紀前の建物ほとんどが残っており、今でも町工場などのような自動車関係のビジネスを多く見受けます。
(参考:グーグルマップで見る)
(SE, 2017.5.14, Original)
(Added, 2017.5.16)