日野スプリント1300GTのその後
まず、スチール製の日野スプリント1300GTであるが、多くの皆さんがご存知の様に永い間、風雨にさらされ大地に戻りつつあった(ご参考)。しかし、世の中、捨てたものではない。何と、これを救った方がおられるのだ。
1月末にオーナー(静岡県島田市)を訪問する機会に恵まれた。偶然にもアレンジを頂いた方のかつてのバギー仲間(ライバル?)だったそうで、デボネアのピックアップトラックだとかランサーのストレッチボデーなんかを趣味で造ってしまう街の自動車修理屋と見受けた。
何十年かぶりに拝見するスプリントは見事にサビから脱出をして、オーナーの大いなる楽観的且つ大胆な解釈(こうでなければまずこんな作業は出来なかっただろう)で、やや軍用車的な濃厚なグリーンで塗り上がっていた(写真:スチール製日野スプリント1300GTを参照)。これは本当にオーナーの熱意を賞賛したい。もう少しのご努力で完成することになろう。歴史的な解釈は別として、楽しみである。
さて、もう一台のファイバー製であるが、「ノスヒロのコンテッサ1300スプリントについて」の際にコメントを避けた二つの理由があった。
まず第一にノスヒロの解説は完全に誤ったものである。おそらくライターが事実に基づかない且つご本人の確固たる調査が不十分な上に巷の風評で書かれたとしか思えない。昨今のメディアも政府や国民の問題に巷の三流週刊誌以下のネタで裏書きもちゃんとしないで論じ、我々世間を誤解に落としいれているようなものである。メディアはこれを慎まねばならない。
第二は、そのファイバー製のクルマ自身だが、ノスヒロの中での「入手経路は訳あって明かせない」といかにも意味ありげと受け取れるものだった。実は、このスプリントはある場所に保管(写真:1974年 (昭和49年) 当時、東京都下にてを参照)されていたのだがオーナーの許可を得ることなく持ち去られたというのがボクの見解&理解であり、事実でもある。おそらくそれは、1975年 (昭和50年) 10月から1976年 (昭和51年) 2月くらいの期間と分析している。その後、おそらく1977年 (昭和52年) くらいであろうか、練馬ナンバーを付けて、池袋近辺で走っていたのを見たとか、多摩美大構内にしばしば駐車していたとか、さらに持ち去った方の郷里と思われるが四国で走っているとか続々と情報が寄せられていた。
ナンバーが付いていたことには大いなる疑問を呈するもので、おそらく他車のものを付けていたものと確信的推測をする。数年前のヤフーのオークションで車検が取れませんというコンテッサ・クーペの売り物があり、その傍らにこのファイバーのスプリントがあった。更に当時、あるサイトには人物入り(持ち去ったご本人?)で掲載があった。と、言う訳であり、このファイバー製のスプリントは不法に所有(?)されていると言わざるを得ない。旧車を愛するならば、元の鞘にすみやかに戻されることを強く奨める。
さて過去のPD誌 (日野コンテッサクラブの機関誌:当サイトオーナーはすでに退会) でボクは3台のスプリント1300が試作されたとしたが、最近の調査状況ではちょっと怪しくなって来た、2台は明らかに現車を確認しているが、残る1台の現車を解体されたと言う証言だがウラが採れないのである。またこのクルマのリヤシャシーはダブルウィッシュボール(またセミトレーリングか)が実装されていたと言うが検証出来てないし、アルピーヌA110との技術的時代考証をすればそれは怪しい。
ファイバー製の1台は製作に関わった人たちの証言も採れつつあり、出生が明らかに出来るファイバー製日野スプリント1300GT(写真:1965年当時、フランスにてを参照)である。しかし、スチール製はそのレベルのウラが採れるところまでには残念ながら至ってない。いずれにせよ2台現存、ファイバー製の1台はエンジン含めアルピーヌ製であり、且つ走行テストされたものであり、歴史的に検証が可能である、またスチール製については出生不明であり、走行目的があったのかについても疑問符が付く訳で更なる調査を進めている、と改めておく。
今後もこの調査はライフワークの一部として続ける所存である。ボクの30年余り (2008年現在) の日野スプリント1300GT追跡の時間は長くもあり短くもあり、撮影&収集写真も300枚を超えてしまった。日野の中では土の中に消えてしまった歴史ではあるが、世界の各地には様々の情報(生き証人を含め)が点の様に存在し、それを結びつけて、知られざる事実を組立てて行くのも楽しいものである。
(追記)最近の調査で、日野スプリント1300GT(仮称)は1台はスチールボデーでこれはファイバー車製作へのモデル用、そしてもう一台がプロトタイプとしての目的であった日野のスポーツカーとしてのファイバーボデーでこちらは走行試験を含め実施されました。共にイタリアのミケロッティ社で製作され、スチールボデーは日本の日野自動車へ回送、ファイバーボデー製のプロトはフランスのアルピーヌ社へ回送されサーキット&オンロードでの走行試験を含む更なる熟成へと向けられました。その後、ファイバー製プロトは1966年10月のパリサロンに展示、そして日本へと回送されました。よって、本サイトでの初期から記述した「3台説」はここで取り下げ、新たな検証事実として1台の走行実験&ショー展示に供されたファイバー製プロトタイプモデルと1台のステール製ボデー(ファイバー製プロトタイプの製作用モデル)の2台であったと訂正します。これらの詳細については、別途記述します。(2010.8.31)
スチール製日野スプリント1300GT
プロト製作用のモデル車両だった。走行する目的ではなかった。事実、120mm径のセンターフレームに対して、過大な重量のスチールボデーであるため、1972年、東京レーシングカーショーの持ち込む際の中高速での走行した方のご意見があったように、走行時のよじれは避け得ぬものだった。
ファイバー製日野スプリント1300GT
1974年当時、東京郊外にて。日野の社外に出てこの時点で、本来のプロトとは別物になっていた。エンジンはストックのセダン、ブレーキも4輪ドラム&13インチホイール、メーター廻りも魅力的なものからストック流用などなど残念ながらハリボテ状態、とてもアルピーヌ製日野スプリント1300GTとは言えないハリボテだった。
1965年当時、パリ郊外 Autodrome de Linas-Montlheryにて。
(SE, 2008.2.23、 Original)
(2016.11.24, Renewed)