モーターショー・スペシャル - 東京モーターショー、50周年(2005年)記念
今日ではトラック専業メーカーとなった日野自動車であるが、戦後の自動車産業復興の黎明期に乗用車の開発・生産・販売と日本の産業発展に日野は重要な位置を占めていた。今年(2005年)の東京モーターショーは半世紀を記念して、旧車となった当時の乗用車達も会場で脚光を浴びている。あえてここでは日野自動車の当時を紹介する。
第1回:全日本自動車ショウ(1954年、東京・日比谷公園)
今日ではトラック専業メーカーとなった日野自動車であるが、戦後の自動車産業復興の黎明期に乗用車の開発・生産・販売と日本の産業発展に日野は重要な位置を占めていた。今年(2005年)の東京モーターショーは半世紀を記念して、旧車となった当時の乗用車達も会場で脚光を浴びている。あえてここでは日野自動車の当時を紹介する。(日野のページはこちらを参照)
第2回:全日本自動車ショウ(1955年、東京・日比谷公園)
ガイドブック(下記)を見ると、今では趣きを感じるモノクロのイラストである。ルノー日野(PA55)の絵の大きさからもその当時の意気込みを受け取れる。1955年がらルノー日野4CVのフロントにはフランス仕様同様、実用的なフォグランプ&クラクションが配備されていた。今もって、粋を備えた機能美である。(日野のページはこちらを参照)
第11回:東京モーターショウ(1964年、東京・晴海国際展示場)
この年は東京オリンピック、景気・経済も登り坂。日野自動車羽ショウ直前の9月に新型車、ミケロティイ・デザインと待望の自社開発GR100型エンジン登載のコンテッサ1300を社運を賭け発表・発売開始。モーターショウではセダン&クーペ、計8台を展示。10年先でも通用するデザインとトリネーゼ・スタイリングを強調。(日野のブースの状況はこちらを参照)
第31回:東京モーターショウ(1995年、千葉・幕張メッセ)
コンテッサ1300デビューから30年あまりを経て、日野自動車はテーマ館「夢と冒険を乗せて走ったくるまたち」に1967年米国レース向け(当時の対米輸出計画の希望の星であった)に米国で開発された競技車両(コンテッサ130クーペLベース)を展示。歴史から消えかけた日野の乗用車戦略を記憶の彼方から蘇らせ、会場の華となった。
(SE, 2013.3.31, Renewd)
本ページへのコメント&意見はこちら迄 (実名表記にて) 。
Any Comments to here would be appreciated (Please Use your one name)