“昨年の自動車ショーにも出品され、昨年12月発売が予定されていたが、1300セダンの生産に追われて発売が遅れていた。しかし量産の体制も整い、4月1日から全国一斉に市販が開始された。構造的には発表当時と変わりないが、乗用車物品税の改訂によって価格が85.5万円に値上げされた。なお、このクーペはトリノ・ショー、ジュネーブ・ショー、ニューヨーク・ショーなどにも出品された。” (以上、CAR グラフィック、1965年5月号国産ニューモデル誌面より)
このCAR グラフィック、1965年5月号国産ニューモデルには同時期に発売開始となった「ニッサン シルビア (Datsun 1600 Coupe」、「トヨタ スポーツ 800 (Toyota Sports 800) 」、「トヨペット コロナ 1600S (Toyopet Corona 1600S」、「ダイハツ コンパーノ ベルリーナ 1000 (Daihatsu Compagno Berlina 1000) 」、「ダイハツ コンパーノ スパイダー (Daihatsu Compagno Spider) 」が各社数ページに渡って大々的に紹介されました。
日野自動車の日野コンテッサクーペはわずか1/3ページ (上記) でありました。残念ながら当時の他社に比べてまったく小さな扱われ方でした。この格差には何かがあったのでしょうか?当時のCG誌を全体的に見ると、海外での活躍 (モーターショーや競技) など含め、ホンダなどが圧倒的に多く、またトヨタやいすゞに比較すれば日野自動車の話題は多くみることが出来ません。この分析については別途記述したいと思います。
1965年4月に発売開始になった日野コンテッサクーペは、翌年の1966年10月にはトヨタ自動車との提携発表 (参考:小型乗用車のコンテッサはやめる。その代わり小型車について生産委託などの協力、援助を) とともに早くも生産中止の噂が部品メーカーへの発注停止などを背景にメディアの通じて巷に流れました。たった、1年6ヶ月という短い時間を経てのことでした。上記のCG誌の扱われ方の小ささとともにあっという間にひっそりと市場を去りました。
欧州のコンクールデレガンスに日本車初のグランプリを何度も獲得した美しいクーペはまさに “美人薄命” だったと言えます。イタリア・カースタイリスト、ジョバンニ・ミケロッティ (Giovanni Michelotti) によるデザイン (外観だけではなく内装細部に至る総合的なパッケージング) と日野の技術者のエゴさえ感じる独創的なGR100エンジンにさらに磨きをかけた個体には永遠の美しさを感じるものです。
なお、同誌には、日野自動車の一面広告を出しました。ただ、ホンダがカラー広告だったことに比べると、日野のそれはモノクロでした。(こちらを参照)
(SE, 2015.6.2, Original)