第10回 全日本自動車ショー、ミケロッティ・デザインのヒノ・コンテッサ900スプリント公開
50 Years Ago - Michelotti's Hino Contessa 900 Sprint was introduced in 10th All Japan Auto Show 1963
「第10回 全日本自動車ショー 1963」は、1963年(昭和38年)10月26日から11月10日、東京の晴海に於いて開催されました。昨今のTPPの騒ぎの如く、当時も「自由化」という経済・貿易の波に日本の自動車産業はどう立ち向かうかの中、また翌年に控えた第二次世界大戦の敗戦国である日本の立ち直りのシンボルでもある東京オリンピック開催と熱いエネルギーを感じさせるイベントだったと分析しております。
日本のどの自動車OEM(各メーカー)は、外資の技術導入を進め、その結果が出始めた時代でもありました。日野自動車は、フランス、ルノー4CVの完全国産化を進め、それそのものは輸出出来ないものの、1961年度に発表したコンテッサ900やブリスカ、さらに日野コンマースまど「Made in Japan = 国産製品」の輸出というものが始まりつつありました。そんな中、本命の「輸出適格車」となるべく日野コンテッサ1300が開発が進められていました。ハードそのもの技術は日野のものではありますが、国際的に流通させるために、クルマ全体のデザイン(あるいは、パッケージングという方が正しいか)は、イタリアの若き、スタイリスト、ジョバンニ・ミケロッティ氏と契約をしました。その過程でミケロッティ氏側からの提案で創られたのが、量産の日野コンテッサ900をベースに開発した「日野コンテッサ900 スプリント」だったのです。
別途、記述のように、「日野コンテッサ900 スプリント」は、トリノ・ショーでデビューし、続いてジュネーブ・ショー、そしてニューヨーク・ショーと世界の最も重要なオートショーに出展され、話題をさらいました。このアクションそのものは、当時の日本のメーカーでは異例中の異例、あるいは世界的にみれば極めて常識的なマーケティング手法と言うべきもので、如何に日野自動車がこの「コンテッサ900 スプリント」とともに来るべき、ミケロッティ・デザインの「コンテッサ1300」に社運を掛けていたかを伺い知れるものです。
ニューヨーク・ショーからトリノに戻った「コンテッサ900 スプリント」は、1963年5月、日野の技術陣により3速ミッションを本命の4速に換え、ナルディ・チューンの高性能エンジンのテスト、そして市街地走行とプロト車両としての一連の最終試験がされていました。その後、いよいよ、季節も暑くなった時期に日野市の本社にデリバリーされ、全社員の期待をこめた熱い歓迎をもって迎えられました。
この年の全日本自動車ショーは、各社のエネルギーが爆発したの如くスポーツカーのプロトを出してきました。その中でも、すでに欧州での生産、米国での販売を宣言していた「日野コンテッサ900 スプリント」は大いに話題を提供し、また戦後の経済発展の過程で、世界に輸出できる製品の出現に大いなる夢を現実なものにすべく期待をいだかしてくれたと分析します。
以上は、四半世紀前の出来ごとであります。
参考までに当時のStyle Auto誌からの「コンテッサ900 スプリント」の特徴的な面を以下にピックアップしました。また、ミケロッティ氏がこの「コンテッサ900 スプリント」に如何に大いなる野心をもっていたかをStyle Auto誌の解説でご理解’いただければ幸いです。
Giovanni Michelotti, stilista e carrozziere
ミケロッティ氏は、コーチビルダーであるよりはスタイリストとして彼の作品は考慮されています。彼が組立てるクルマはほんの一部であり、それぞれは1車のみの制作で行われてました。しかし、彼の主な活動は、ストックカーメーカーとの厳密な協力であり、市場への発売前に、多くは二年ないし三年間前からクルマのスタイルに取りかかっています:それはスタイルが趣向の進化を通してどうなるかの真の提供を意味しています。
クルマのスタイルは、機能性からの必然 (functional exigencies) に依存するというのがミケロッティ氏の考え (opinion) ですが、空力要件に伴う曲線志向が結果として生じ、フロントの高さを低くし、"カットテール (コーダ・トランカを意味する) " を採用する傾向にあります。
当節は、すべてのフロントのライトについて、すなわちポジション・ライト、ヘッド・ライト、およびフォグ・ランプをワン・ユニットにまとめる傾向について、ゆっくりながら、徐々に進化しているのに反して、バックライトのデザインについて、クルマ全体のバランス調和が常にとれない一般的に量産車で使用されている共通タイプを使うことをビルダーに求め、公認不可ともなり得る新しい形状の ”特別製” への難しさがイタリアでは見られます。ミケロッティ氏は、それが可能な限り最高の視認性と快適さを提供するために不可欠であり、安全性の必然は、設計の非常に早いの段階から考慮しなければならないと述べています。この思考の典型的な例が、日野(スプリント)の弾性ダッシュボードです。
実用面の根拠として、エアインテークに置き換えることで、サイドの三角窓を廃止していることです。それはミケロッティ氏の信念であり、ついで、そのデザインは、以下の基本的な役割を担っています:スタイルを簡素化することは、生産コストの削減を達成することを意味しています。新たな可能性として、合成透明樹脂のトップ処理、力強さを映し出すためにもなる特殊な塗料、さらに熱の放射などの対応となります。プラスチック繊維で作られたボデーは、まだ多くの技術的問題を解決していないし、その使用は、小さなシリーズのみで行ったクルマに限定されています。
(以上、写真共にStyleAuto誌創刊号より、 抄訳:江澤)
参考文献:
- Style Auto, #1 Inverno Primavera 1963
(SE, 2013.10.24 Original)
(Added, 2014.1.19)
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