日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)
2.5 ふくろう部隊の出現 - 闇の中を疾走する試作車
(In Working)
1959年(昭和34年)1月、試作1号車が完成し、工場内の秘密のテストコースを大久保社長等関係者を前に走ったのである。
その後、試作車のテストが繰り返され、2号車、3号車と不具合を改善していった。不具合は予期されたものだが、それ等は無駄なゼイ肉をとるための車体の重量軽減や電磁セレクト式ギヤチェンジなど新しい試みへの反発でもあった。試作車が5、6号車へと増し、次第にバランスのとれたものとなってきた。
そして1960年(昭和35年)、 ”ふくろう部隊” の出現となった。社内でのテストが徐々に熟成されていったが、当然のことながら新型車は真っ昼間から堂々と工場の外に出る訳には行かないものである。そこで、試験部隊は試作車に擬装を施し深夜のみ、闇の中、社外を走りまわることが許されたのだ。そして夜明け前に帰ってくる。それを毎日繰り返す。完全なふくろう生活だった。20台に及ぶ試作車のテストの繰り返しの結果、メカニカル面の熟成が進み、その性能及び耐久性はルノー4CVの比ではなくなった。
1961年(昭和36年)2月27日、陽春を前にしては ”気品を秘めた美しい伯爵夫人” としてコンテッサ900は発表された。当時、専務取締役にあった家本は従業員に ”日野のヌーベル・バーグ” コンテッサの誕生と称し、この車をもって遠く海外の市場に進出するだろうことを説き、これまでの開発の努力を労うとともに、生産担当者には「バトンはすでに諸君に引き継がれていることを銘記して頂きたいと思います。この車を愛情をもって作ることは、諸君の誇りでもありかつ重大な使命でもあります」と希望を託した。
販売面では日野自動車販売の資本増加などに強化を行い、輸出に関しても日野自販にあった輸出部を日野自工に移すとともにコンテッサの名付け親でもあり、戦後工場再開に家本等と共に尽力した内田一郎日野自販常務が日野自工の常務として戻り輸出業務の陣頭指揮をとることになった。
ユーザーは相変わらずタクシー向けが多いものの本格的モータリゼーションの到来とともに個人オーナー向けも順調に売り上げを伸ばしていった。
コンテッサ900はその後、2度のマイナー・チェンジを受け更にスポーティ版である40馬力エンジン、4速フロア・シフト、バケット・シートなど盛り込んだコンテッサ900Sが加えられた。輸出は東南アジアを中心に遠くは南アフリカへと出荷され、フィリピンでは現地組み立てによる輸出(CKD)も進められた。
この様にコンテッサ900はルノー4CVの国産化で得た技術の実践であり、日野オリジナルの車造りであった。それは家本等が受けついた星子イズを具現化したものだった。結果的にコンテッサ900は963年(昭和39年)の末までに累計で47,299台が生産された。その内およそ6,000台は海外に出て行った。
コンテッサ1300 - デザイナー探し
コンテッサ900開発には並々ならぬ努力を注入した訳だが発表当時の1961年(昭和36年)春には既に次期モデルの開発に入っていた。それはワン・クラス上の車格、そしてデザイン面でよりプロフェショナルなものを要求したものだった。
特にデザインに関してコンテッサ900は社内で何から何まで案中模索とも言うべき無からの出発であったこと、また、同時期発表の商用車のブリスカは社外のインダストリアル・デザイナーを起用したものの、これはこれで否定するものでないが世界を目指すためには、やはりデザインはイタリーでやらなければ、と云う機運になっていたのだ。それは日産がすでにピンファリーナとの関係がほぼ見えてきたと云うことも拍車をかけたのだ。
1960年(昭和35年)のある時期、家本の命を持って当時パリのルノー公団にいた山内常範(現日野通商社長)は列車でトリノに向かったのだ。そこには戦前、松方五郎が星子勇をパートナーにした様に素晴しい新たな出会いが待っていたのだ。
(Newed 2014.8.11)
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