日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)
3.3 ミケロッティの贈り物 - コンテッサ900スプリント
(In Working)
ミケロッティはコンテッサ1300の基本的なスタイリングを一段落させた1962年の6月、ほとばしるエネルギーを止めることが出来ない様な勢いで自ら一台のライト・ウエイト・スポーツの設計/製作を開始した。それはそれまでのアルピーノ・ルノーなどミケロッティの一連のデザインの特徴である低いウエスト・ラインや細く見せるピラーなどその異才を存分に表現したものであった。
それはミケロッティ自身の実力を表現するに打ってつけの素材が現われたからだ。低いウエスト・ラインが実現出来るリヤ・エンジン車のコンテッサ900(実態は中味の無い)がコンテッサ1300のデザインのために日野から送られていたのだ。
1961年末、岩崎がトリノを訪れた際、ミケロッティからコンテッサ1300の契約とは別に900ccのリヤ・エンジン・スポーツカーを自分の意思で作りたいとの提案がなされ、そのためのコンテッサ900のエンジンとシャシーの無償提供の可能性の打診があった。「社には事後承認をとる形でミケロッティ氏の意向をその場で受け入れた」と、岩崎は当時を思い出す。
その直後、第二研究部からコンテッサ1300のホワイト・ボデーの設計のためにミケロッティのもとに長期出張した藤島昭夫は「ある晩、ミケロッティとオールドパーを一本空けてしまった。次に日本のサントリーの角を空け初め、それを肴に日本のトランジター・ラジオとカメラの優れた技術の話題となった。そして、日本のエンジンも日野が優れている筈と。自分はそれでスポーツカーを造りたいとウイスキー片手に熱く語った。翌日、素面になって念のため確かめたら本気だった」と、付け加える。
日野側の要望、すなわちビジネス上の契約で進められたのが市販されたワン・サイズ大きなコンテッサ1300であり、「コンテッサ900のままでも素晴しい車が出来る」とその性能と構造に惚れ込んだミケロッティ自身の申し出で、コンテッサ1300とは別のラインで進められたのがコンテッサ900スプリントである。
当時はコンテッサ900クラスのサイズでアバルト、アルピーヌ、フィアット850クーペなど魅力的なライト・ウエイト・スポーツが多くあり大きな13001ベースでは無くともというのは的を得たものである。
ボデーは日野から送られた輸出用コンテッサ900のシャシー、フロアー・パンなどをベースに製作され、パワー・ユニット及びシャシーは美しいボデーにふさわしく、当時のボディー・メーカー、ナルディの協力によりチューン・アップされた。
スタイルはまず、空力的に優れたものであり、低いフロントとカット・テール、所謂コーダ・トロンカだ。また、安全性への配慮の必要性。典型的な例として、弾力性のあるフロント・ダッシュボード。そしてシンプルなスタイリングであること、これは後々、生産コストを下げることになる、等などである。
コーダ・トロンカとは空力の性能を向上させる手法でリヤのテールを垂直に切ることで、古くはアルファ・ロメオTZ、コブラ・デイトナ・クーペや日野サムライなどがある。最近では、先代までのホンダのCR-Xを例としてあげることが出来る。勿論、コンテッサ1300もこのコーダ・トロンカだ。
コンテッサ900スプリントはこのようにミケロッティ自身の全てのアイデアやエネルギーを感じることが出来る。その製作はほぼ4カ月という非常に短期間で完成している。
プロトタイプ車は1962年(昭和37年)の10月に完成させ、早くもその月の末のトリノ・ショーに持ち込んだのあった。それは「トリノのスタイリストは際立った空力処理をもってエレガントなラインの特徴的なスポーツカーを仕上げた。このクーペの流線形はエンジンを後ろに持つことで実現された。近い将来、このコンテッサ・スプリントはイタリアで量産化されるだろう」(スタイル・オート誌、No.1)と世界に報じられた。
丁度その時期、ミケロッティとコンッテサ1300の打ち合わせでトリノにいた岩崎はこのトリノ・ショーに内田一郎(当時、常務取締役輸出本部長)と共にコンテッサ900スプリントの評判を目にすることになる。「大変の評判でトリノ・ショーを圧倒した。当地の新聞でも第一面で取り上げられ、ミケロッティは大変ご機嫌だった。何度見ても美しかった」と岩崎は思い出を語る。
(Newed 2014.8.11)
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