挑戦 - 第二回日本グランプリ、ワークス体制を組む


日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)

5.2 挑戦 - 第二回日本グランプリ、ワークス体制を組む


(In Working)

 第一回日本グランプリのコンテッサ900の予想外の好成績は乗用車市場開拓の途上にある日野にとって大きな刺激材料になった。それは販売面でのコンテッサのイメージ・アップ、すなわち販売の活路を広げること、そして社内の技術面での向上に大いに寄与することは当然のことながら、それは若手技術者にもの貴重な経験をもたらすものだった。

 そんな中、内外の自動車レースに積極的に参加すべく非公式ではあるが工場の技術者の有志によるオートレース委員会が設けられた。委員長には戦前から自動車産業に造詣が深く、且つ氏自身が自動車愛好家でもあったことで、1962年(昭和37年)11月、当時の富士銀行から日野の常任監査役に招へいされた宮古 忠啓が就任し、1964年(昭和39年)5月の第二回日本グランプリに向けてのファクトリー・チームとして本格的な取り組みが第一回日本グランプリ終了後開始された。言わば ”日野ワークス” の誕生だ。

 また当時、プロのレーシング・ドライバーもいなかった時代だったのでレース経験などのトップ・アマチュア・グループであった第一回日本グランプリの覇者立原やダンハムを配する105マイルクラブ(塩沢商工)と契約を結んだ。

 当時の日野の小型車開発の専門部門の第二研究部ではまず高出力エンジンの開発が進められた。第一回日本グランプリ出場車のベスト・ラップや公称馬力などの分析を進め、FIAスポーツコード付則J項に基ずく第二回日本グランプリのコンテッサ900の要求性能を以下の設定した。

  • スポーツカー(T)クラス 50〜55ps - 6000rpm 7.1kg-m 4600rpm
  • グランドツーリングカー(GT)クラス 60〜65ps - 7000rpm 7.1kg-m 6000rpm

 コンテッサ900のGP-20エンジンはエンジン・ブロックを除き全面的なスープ・アップがなされ、1963年(昭和38年)の暮れには目標値を上回る70psを達成するに至った。コンテッサ900GTの誕生である。鈴鹿でのテストは3分16秒台と戦闘力を増していった。因に日野の当時の他社車両の計測記録はベレルが3分7秒、ベレットが3分22秒であった。

 一方、塩沢商工側ではコンテッサ900のパーツを流用し、国産初のフォミュラカーの設計・製作が平行して進んでいた。これは当時のFIAの ”ジュニア” の項目に沿ったもので、エンジンはコンテッサ900GTの985cc、足周りはかなりのものがコンッテサ900からの流用だった。このフォーミュラ・ジュニア(F-J)は ”デル・コンテッサ” と銘々されたのだった。完成後はコンテッサ900GTと共に日野のテスト・コースや鈴鹿で熟成を進めた。

 1964年(昭和39年)4月中旬からは三重日野販売会社をベースに鈴鹿での合宿トレーニングに入っていた。日野はレーシングカーの総合テストが可能なテスト.コースを持ち合わせなかったので鈴鹿でのテストが全てであったと言える。

 Tクラス車が9台、GTクラス車が9台、スペアが3台、そしてF-Jが3台と大挙送り込まれた。このテストでは案の定、あらゆる問題点が露呈し、昼間は走行テスト、夜は調整・修復そして一般国道での慣らし運転と24時間体制での作業が連日連夜続けられたのだ。最終的にTクラスでダンハム選手が3分20秒台、GTクラスでは塩沢 勝臣選手が3分10秒台、そしてF-Jクラスでは立原、小島、ダンハム選手ら共に2分57〜59秒と大いに希望の持てる範囲と思われた。

 そして4月28日にはTクラスの予選が行われた。結果はどうであっただろうか?上位勢は三菱コルト勢が占め、コンテッサ勢は6番手が精一杯だった。ドライバーによればS字の上りではつめられるものの、直線では簡単に抜かれてしまうといったものだった。その晩、勿論対策は協議され、キャブのセッティングなどが結論として挙げられた。

 翌29日にはGTクラスの予選が行われた。ここでのコンテッサ900GT勢は前日同様10番手が精一杯で上位はホンダS600勢が占めたのだ。当時の報告書に依れば、「ホンダは速い。S字でつまらず、ストレートではなされる。勝算全然なし」とある。

 一方、予選に於ける3台のデル・コンテッサ・フォーミュラは国内初のレースながらロータスやクーパーに混じって7、8及び10番手のポジションを得たのだった。

 5月2日のレース第一日目の午前11時にはGTクラスの決勝は行われた。10番手以降のポジションからのスタートのコンテッサ900軍団はバックナム選手達のホンダS600勢には歯がたたず12周レース終了時はダンハム選手の10番手が最上位であった。翌日、5月3日の午前11時出走のGTクラスのコンテッサ900はやはり三菱コルト勢に歯がたたず、結果としてダンハム選手が5位を得たにとどまった。

 F-Jクラスのレースは5月2、3両日行われ、そこでのデル・コンテッサ・フォーミュラの活躍はオール外車勢に対して大いに気をはき、観客を沸かせることになった。1日目のレースでは立原、ダンハム選手がそれぞれ6、7位と、2日目のレースでは6位とこの国産初のフォーミュタラは健闘したのだった。それは ”新型フォーミュラは初戦で完走出来ない” という当時のジンクスをくつがえすものだった。

 しかしながら、予選の結果からも明らかの様にこの時点でのライバルに対してコンテッサ900の性能の限界が見えて来たのだった。一方、「日野は十分なテストコースをもってなかったのでオープンなサーキットでテストをやらざるを得なかった。このことは他社に容易に状況が知られてしまう。三菱は直前まで社内で十分なテストが行われた様で突然と鈴鹿に現われた。我々は何の情報も持ってなかった」と、宮古は当時を述懐する。

(Newed 2014.8.11)


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