日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)
7.1 ピートの夢実行作戦 - 日野をパートナーに
(In Working)
ピーター・ブロック(以下、ピート)はニューヨークタイムスの記者であった父、第一次世界大戦時代のリバティ飛行機エンジンの設計・製作者だった祖父のもと、1938年(昭和13年)ニューヨークに生まれた。クルマを愛したピートはロサンジェルスはパサデナの自動車デザイナーの天才を多く生みだしたアートセンターカレッジを経て、1957年(昭和32年)に弱冠19才にしてデトロイトのGMのスタイリング部門でコルベットのプロジェクトに関わった。
しかし、GMという巨大組織での仕事を好まなかったこと、またピートの考えにあった小さなクルマ、小さなエンジンの高性能車というコンセプトが当時のGMで理解することは難しく、ピートは愛車のクーパー・クライマックスと共に再びロサンジェルスに舞い戻ったのだ。ハリウッドの外車サービス会社を経て1959年(昭和34年)にキャロル・シェルビーのプロジェクトに従業員第一号として参画する。レーシング・ドライバースクールのインストラクターで活躍した一方、フェラーリ打倒策のより空力特性に勝ったコブラ・デイトナクーペをデザインしたことはあまりにも有名な事実だ。
コブラ・デイトナクーペの成功はキャロル・シェルビーとフォード社の結び付きを一層強くし、皮肉にもピートが好んだアイボール(以心伝心の様なもの)での作業が進められなくなって行った。すなわち何から何まで細かな図面がないとクルマが出来ないという状態になって行ったのだ。ピートは鋭意デザインしたフォードエンジンを搭載したデトマソのレーサーや次期デイトナのタイプ65コブラ(スーパーコブラ)プロジェクトが宙に浮くに至って、ロサンジェルス空港近くの自宅のガラージに自身のBRE(ブロックレーシングエンタープラズ)を興したのだった。
その後、シェルビーと縁の切れたデトマソの完成にギアとプロジェクトを進め、そのグループ9の5リッター・レーサーは1965年(昭和40年)の秋のトリノーショーでピート・ブロックデザインのギア・デトマソとして専門家の間で大きな話題となった。ボデーの後部にピートが言うところの可変の”リングエアフォイル”を持ち、ボデー自体にダウンフォースを働かせようというものであった。いわゆる現代で言うウイングである。ピートは最初、コブラ・デイトナクーペに試みるもののシェルビーでは実現しなかったものである。
ピートはこのデトマソを50台生産されることを期待し、自身で米国の代理店とレーシングチームを持つことを計画したが実現に至らなかった。丁度このデトマソをイタリアで製作していた時期に日野から一通の電報を受け取ったことは前号の通りである。
この様な背景で1965年(昭和40年)9月の日野のオファー、特にレース委員長でもあった宮古 忠啓(当時、日野自工常任監査役)の熱意あるコンテッサ1300の対米輸出構想を聞き、具対策を長時間議論するに至ってピートは自身の夢がオーバーラップしたのではないかと考える。
ピートは「3つの目的が私としてあった。第一に日野の全米のデーラーの権利をもつこと。第二に次期モデルのコンテッサをデザインすること、これはミケロッティよりも優れたものを作る自信があったこと。第三に自分のレーシングチームを持つこと。これはパーフェクトドリームであった」と当時の記憶を鮮明に語る。
パーフェクトドリームを実現するために自ら行動を起こしたのがコンテッサ1300クーペのエンジンを搭載したプロトタイプ・レーサーだった。これはピート自身の能力を試すものでもあり、自身の夢に一歩も二歩も近づけてくれた宮古を初めとする日野への感謝の気持ちでもあった。ピートはこのプロトタイプ・レーサーにサムライと銘々、日野に披露すべく進めていたのだった。
(Newed 2014.8.11)
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