【2005年5月11日, ご意見から】
名前:鈴木 陽一郎
住所:愛知県西尾市
目的:コメント
私見:JP6&福沢幸雄選手について
P.Brockさんの JP6が、何故だかこの時期になって結構話題になって気になります。
まず、最新の SUPER CG 46号に、P.Brockの協力によるという 7ページにおよぶおそらく前例のない特集がありますね。この雑誌は高価なので、本屋で立ち読みをして良く吟味して余程興味ある記事がある時のみ(R. 4CVベースのスペシャルの特集があった号等)買うのですが、今号は JP6を見て他の記事は見もせず思わず直ぐ買ってしまいました。そしたらたて続けに、今月のNostalgic Hero Vol.109に得意?の発掘スクープという記事で幻のトヨタ6(仮称)が取り上げられ、一部 JP6にも触れられていて写真も載っていますね。
そんな JP6への気持ちが高まっているところに、江澤さんのサイトが更新されていて、ご意見から・・に、JP6(J6)の話題が・・・あの堀さんとおっしゃる方の福沢幸雄選手の話には「ガーン!」とショックを受けてしまいました。ボクも、福沢選手がクローズドボディのトヨタ7とされるマシンのテスト中に謎の事故を起こし逝ってしまった事、JP6はトヨタの元にあったはずであるが・・等々断片的な知識はあったのですが、JP6はどこへ行ってしまったのか?現存するのか?クローズド・トヨタ7とはどんなマシンだったのか?等々・・・30数年間ボクの心の中でモヤモヤしていた疑問が、堀さんの一文でピーン!と来てしまったのです。ボクは当時読んだ「ある書籍」から得た知識:あの事故後の会見のトヨタ側の発表で「従来のトヨタ7と内容は全く同じで屋根を付けただけのクローズドボディだった」という文章が記憶の中にこびりついて固まっていたので(当時田舎の中学生であったボクには情報も少なく、日野SAMURAI はもちろん大好きであったにもかかわらず同じP. Brock 設計のJP6の事は知らなかった)、後に JP6の知識を得ても福沢選手のクローズド・トヨタ7?とは結びつかなかったのです。
でも、堀説?・・・たぶんそう!です。トヨタが、実は事故車は実績ある従来のトヨタ7とはシャシー等全く別物にもかかわらず、福沢選手の父親や記者らからプレッシャーをかけられて、クルマの信頼性に問題なかった事を強調するために適当に不正確な返答をしてしまった?と考えると他の30数年間の疑問はすべて解決されてしまう様な気がします。
「ある書籍」とは、”コースにかげろう燃えて(スピードに散った福沢幸雄の記録)”S44年4月オートスポーツ編集部 です。当時中学生のボクは、S40年代前半の年に1回TV放映された日本GPをTVにかじりついて、TVにシャッタースピードを同調させて写真撮ったり8mm撮影したり(ビデオなんてなかった)・・・とにかく一生懸命観ていて、1番の楽しみだった様な気がします。どちらかと言うとトヨタよりもプリンス→日産を応援していましたが(日野サムライは応援しようがなかった)、とにかくカッコ良かった福沢選手は生沢徹選手と共に個人的にファンでした。トヨタ7は初期型(415S)のノーズが変更される以前のヘッドライトの形の付いた最初期モデルが好きでした。そんなボクなので、記憶では新聞やTVで伝えられた、福沢選手事故の悲報はかなりショックだったのを憶えています。当然の様に前述の”コースにかげろう・・・”が発刊されるや買ってきて没頭して読みました。この本は、生沢徹著:”チェッカー旗はまだか”と共に宝物として、現在もボクの部屋の本棚に大切に保管してあります(江澤さん同様?モノ持ちが良い方なので)。しかし、持っている事がうれしいけど、その後何十年?中身を見直した事がなかった気もしますが、今回の江澤さんサイトご意見からショックを受けて、引っ張り出して見直してみました。すると・・なんとお恥ずかしい事に当時おそらく知識がなくあまり気に留めていなかったのか、忘れてしまっていたのか、クローズドボディのニューマシンとの説明でヤマハ・テストコース開き(事故の前日2/11)に姿を見せた紛れもない JP6 の写真が載っていて、なんで記憶になかったのだろうと驚きました。この写真は良く見ると今回のSCGに載っている袋井テストコース開所セレモニーの写真と同一で JP6と後方の白い415Sの部分のみをトリミングしたモノの様です。今回のもう一方のNostalgic Heroの記事によると、ほぼ同時期(S44年1月下旬)に JP6とは異なるプロジェクトによるグループ6マシン(仮称トヨタ6)も細谷選手により谷田部でテストされていたと記載があり、実際このトヨタ6とJP6が谷田部と思われる場所やファクトリー内で同時に写っている写真も存在します。しかし、少なくとも2/11の袋井テストコースお披露目にトヨタ6の方は姿を見せておらず、事故車のトヨタ側も公表しているクローズドボディというのは、現場には JP6しかなかったと思われそれがそのまま翌・運命の2/12にテスト走行したと考えるのが自然でしょう。”コースにかげろう・・・”の中のアクシデントの瞬間という文節に「白いルーフが空中に吹っ飛んだ」との記載もあり、もう一方のトヨタ6の上面は濃い色(白黒写真資料より)でカラーリングされているのです。そして、JP6は2/11に披露された後の消息は不明とされているのです。
こうして考察して行くと福沢選手と運命を共にしたマシンは、JP6の可能性が極めて高いと言わざるをえません。SCG記事文末にも、JP6は社内でも誰の目にも触れる事もなくなり、その存在すら確認されていない。おそらく解体されたものと思われる。・・で結んでいながらも・・・誰もが早々にこの車のポテンシャルに見切りをつけたなかで、福沢幸雄だけが興味を示し、走りこんでいたという記録がある・・・という意味深な記載もあります。しかし、”コースにかげろう・・・”の中の福沢の父親・新太郎氏の証言では、テストに出かける前の自宅での振舞いや当日自宅にかけてきた電話の口調からは、「テストにあまり乗り気でない=中止になればありがたいんだが」といった感じがあったという矛盾する様な記載もあります。
以上、とにかくこれらの事については風化させたくないし、何だか書き留めておきたくなって、長々と論文?を書いてしまいました。また、いつでもお時間のあります時に、ご意見ご感想を頂ければと思います。
TEM-R(Team Eight Mikawa-Rally)
Hino Contessa Club
Club Zone Rouge
鈴木 陽一郎
【2005年5月15日(2005年10月5日改), サイトオーナーからのコメント】
鈴木さま、
お書きの件は同感です。しかし、それを確かめる『ウラ』を取る手段が無い、言い換えれば、当事者の意見(トヨタ、ヤマハ、並びに磐田警察書)は口を封じられてしまいました。
今、言えることは、『第一点』として、BREからトヨタに納入された『J6』はトヨタのどこにあるのか?これは明確にしていただければ全て謎は解決するものです。それはレースカーの歴史でも60年代と70年代をつなぐ意味で非常に重要な資産でもあり、評価すべきものと考えます。その実在を消すことが大メーカーにあるとしたら日本の自動車産業として歴史軽視の恥と言わざるを得ません。
『第二点』として、もし、福沢選手がJ6のドライブ中に事故に会ったと『仮定』したらです(残念ながら)。その原因は何だんでしょうか?それはクルマのテクノロジーの問題ではなく、それを走らせた経営を含むマネージメントの問題です。どんな理由があるにせよ、この第二点の重要なポイトンは設計&製造者レベルで完成してないクルマを、設計意思を理解することなく走らせたに過ぎないのでは、また、テストコースでテストするための最後の詰めに設計&製造者が関与無く(推測)ちゃんと走らせることが出来るのだろうか?テストドライバーであれ、それこそ人命無視と言えるものではないでしょうか?契約ドライバーはどんな契約かは未確認ですが、走ることはするでしょう。しかし、全くのニューカー、しかも設計者が居ない状態で最終的に意図した通りに熟成することが出来るのでしょうか?
いずれにせよ、設計者の意図をもって走らせれば、そんなことは起きなかったのでは?そうでない状態で走らせたことが結果を招いた、よって、これはクルマ(未完成のJ6)やドライバー(福沢選手)そのものの問題でなく、マネージメントの問題と考える訳です。
折しも最近、JR西日本の脱線事故が発生した訳ですが、原因が速度超過にあるようですが、それを招いたものはマネージメントの問題がある訳で、全くオーバーラップを感じます。
水(物事)は決して下(現場)から流れない、上(マネージメント)からしか流れないと言うものです。その意味で、どうしてそんなクルマを走らせたのかの背景、すなわちマネージメントの事実について明らかにしていただきたいものです。
江澤 智(サイト・オーナー)
福沢選手と事故&出生不詳J6を報ずる当時のAuto Sport&Motor Magazine誌
本ページへのコメント&意見はこちら迄 (実名表記にて) 。
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