1961年は、日野自動車のルノー4CVの発展形の日野コンテッサ900が発売されて、50周年の記念となる節目でした。我が日野コンテッサばかりに目は行き過ぎてましたが、実は、本家のルノー4も同様に、ルノー4CVの後継として、1961年に発売されておりました。
何故、ここで取り上げたか?それはタイトルにもあるように、「運命の分かれ道」みたいなものを感じざるを得ないからです。コンテッサ900は、日野自動車として、戦後 (第二次世界大戦) の外資による技術導入の国策の一環として、フランス、ルノー公団のRenult 4CVのノックダウン、そして100%国産化を進めた結果として誕生しました。
コンテッサ900の結末は、5万台弱の生産、3年余りの生産とあまりにも短命でした。一方、早くも将来を見据えて、RRからFFへと技術革新を進めたルノー4は、1992年まで、何んと30年も、しかも生産台数は800万台と、世界至るところで大衆車として愛用され、今でもその多くは人々の生活の足となっているようです。結果として、線香花火のような日野コンッテッサと比べると、大いに運命が違うものだと感じる訳です。
それは企業文化、戦略の明らかな違いと分析します。重要な継続性とか、今で言う、サステナビリティに対する戦略と考えます。また、背景となる伝統というものがある訳ですが、それは自ら創る (自創) 、発信するのが当然であり、借りモノ (例えば、日本の自動車工業の外資による技術導入) であっても尊敬すべき明らかな姿勢がある筈で、それをおろそかにすれば衰退への道をたどると言うのが歴史の教えと思います。
その良い例は、現代のルノー社はルノ−4の50周年に際し、世界に人々に愛されたこのルノー4のためにReneult 4 Ever Design Competitionと言うデザイン・コンペ・イベントを開催しました。それは、ただ旧いモノの懐古趣味的なものではなく、将来に向けたクルマの方向性をも盛り込んだ、正にクルマ文化、あるいはエンジンとかを開発する技術だとか単にクルマのみではない「人の文化」、社会・ソサエティを否応にも感じさせるものです。
コンテッサ900の後継は、日野コンテッサ1300となり、その戦略は、奇しくも「輸出適格車」と位置付けられました。プロモーションとしてのルノー社のお膝元でのパリショーなど出展、欧州各地でのローカルなコンクール参加はあったものの、戦略としての輸出は数千台のとどまり、これまたコンテッサ900同様に5万台の販売で3年弱でトヨタ自動車の資本参加と相成り、日野コンテッサは自らの生命を絶ったのです。コンテッサ900が発売された1961年の時点で、もうすでに、戦略&文化を基に「運命」の「分かれ道」があったと感じ、分析します。
さて、ルノー4の50周年、幾つかあった関連イベントを以下に幾つか気に入ったものを紹介して置きましょう:
RENAULT TV : Designing a Renault4ever! (YouTube)