日野サムライプロト


In Working

【製作過程

 日野自動車の投資で米国でのレース会社で製作されたのが “日野サムライプロト” であります。一般にかなりミステリアスな諸説が語られています。しかし、それは日本だけでのことではないかと分析します。世間一般にあるプロトだけで終わったクルマ (例えば、1965 DeTomaso Sport 5000 prototype1964 Bertone Alfa Romeo Canguroなど) などはそうであるかも知れません。すなわちビジネス上の投資と意図の下に製作しただけで、その際のデザインなどの評価だけで終わり、その後、クルマ本来としての実力をもって何の活躍もなく、スケールモデルがごとく保存・展示などのために未だ生息をする俗に名車と呼ばれるものがあります。

 しかし日野サムライプロトはそれに比べればミステリアスな部分は一切なく、明確な “車生” があります。また、1/1のスケールモデルのようなデザインだけのプロトではなく、日野のレース活動&投資の完了後、放出された個体は、個人の投資と努力でさらにクルマ本来の走るための性能を付け加え、地道に進化を図っておりました。

 それを世代別にすると以下のようです:

  • 第ゼロ世代:クルマ個体は存在しないものの日野サムライの発展の経緯を考察する上で重要な点について分析をベースに記します。ボデーの製作はロサンゼルス近郊のCulver CityDick Trutman and Tom Baranes (T-B) のショップで製作されました。Scarab sport-racing (Googel Images) や Chaparral 1 Sports Racing (Googel ImagesT-Bのもっともよく知られた作品です。ここでゼロ世代、すなわち第一世代の前世とした訳ですが、それは最終的に製作されたボデー形状がデザイナーのオリジナルに意に沿わない部分があったのです。どこがどうということは別として、第一世代として世に出た (あるいは日本にやって来た) 物理的な個体の形状は、T-Bの意 (あるいは解釈) に沿ってしまったものが具現化されたものと分析しています。
  • 第一世代:日野の資金で米国で製作、第4回日本GP (1967年) にエントリー、しかし何の準備のないテストもしてない日野製GR100 OHVエンジンを搭載した個体はレーシングカーとして当然のことながらまともに走れるものではありませんでした。一度も競技目的であるべき試験をしてない個体は富士スピードウェイですぐにその洗礼 (車検失格) を受けたことは当然の結果あり、本来はデザインを鼓舞するショーカーの舞台に出るべきとその場に居合わせた識者の言葉を思い出します。その後、米国でのレース会社は日野との関係解消、すべての資産を処分、日野サムライプロトは近隣のトライアンフのデーラーのオーナーに売却 (物々交換?) 、この段階・世代の個体自身はレーシングカーとしては戦力のない “ハリボテ” のままだったと分析し、言わばコンセプトカーのような走れない1/1スケールモデルでした。ある意味ではメディアの分析なき報道にしか情報を得ない日本特有な社会であったこの時代のものがもっともミステリアスかと思います。それが今でも続いているのかと分析します。
  • 第二世代:個人の手に渡った60年代後半から70年代初期、タイムズGPの前座でレーシングカーとして個人の投資で走るようになりました。色も白のアメリカンレーシング(あるいには日本の白か、でもこっちではなさそう)に実践的に大きくイメージを変えました。PolyToysの1/43 (Politoys #580) がなぜ、白なのかということ(赤も少なくあるけど)であります。ただ、結果を見ればレーシングエンジンとして真の熟成にほど遠かった日野製GR100エンジンは戦力不足だったことは間違いありません。
  • 第三世代:70年代半ば、新たな個人の手で日野GR100からFIAT 124 ツインカム・エンジン (画像) 換装するもののこれまた戦力不足、最終的には戦力のありそうな日野製YE28をメルセデス系のレースエンジン経験のあるエンジニアとともに大幅な改造を施し熟成を進め、日野のベンチでは110馬力程度だったものが数年を経て140馬力、パワーバンドはたったの7,200〜8,200rpmへと進化しました。同時にシャシー製造元のルグランド社でシャシーの強化とリヤサスペンションの根本的なアーキテクチャ・チェンジを進めました。また軽量化と簡素化を進め、高速バンク対策を図ったボデーはカラーリングもパールホワイトへと変化しました。数年、SCCA SWリージョンで50戦弱戦い、3年連続オーバーオルチャンピオンを獲得しています。SCCAの内部ではこの時代がもっとも知られています。ただし、ナショナルのレースではありません。
  • 第四世代:80年代半ばから10数年のストレージを経て、レストアでなく、第三世代に続くさらなる進化のための修復を進めているようです。シャシー&ブレーキの強化、ジオメトリーの変更、ボデーパネルの大強化(オリジナルのハリボテ構造ではなくなった)、その他多数変更中のようです。しかし、同様にミステリアスと称されるデ・トマソやアルファロメオ・カングーロのように量産エンジンでないツインプラグ&ディストリビュータ、ダイレクトギアドライブのウォーターポンプ&オルタネータ、ドライサンプと当時としては高度なメカニズムであった何処にも存在しない唯一の日野製YE28エンジンのOH&さらなる進化・強化には苦難が予想されています。日本GPにやってきた時のようなGR100エンジン搭載は簡単なことですがそれでは魅力がないということです。第一世代と第二世代はコンテッサクーペ用の単なるOHVエンジンでしたが、第三世代の後期の戦歴を上げた時代からは日野製YE28エンジンを個人オーナーの莫大な努力で大幅に進化させていたのです。

 以上のようにいずれもの世代でも走るための進化をしております。オリジナルからの発展・進歩を明確にしており、それぞれの世代によって個体そのものが大きく異なります。簡単ではありますが、これはこれで上記のデ・トマソやカングーロなどとはまったく異なる “車生” であり、すなわち、プロトだけに終わらず、その後の、人生、いや “車生” により大きな部分 (ヒストリー) があり、その意義を理解する必要があります。

 以下の、第一世代、すなわち単なるプロトに終わった時代の製作風景を参考までに記します:

Hino Samuai C 1


Hino Samuai C 2


Hino Samuai_BW_1Hino Samuai_BW_2Hino Samuai_BW_3Hino Samuai_BW_4Hino Samuai_BW_5Hino Samuai_BW_6Hino Samuai_BW_7
197710 Samurai at Tilton


【ご参考: 日野サムライプロト関連】

(SE, 2015.7.4、Orginal)


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