トヨタ自動車は1967年4月。小型トラック部門の強化に全力をあげることを発表した。その一つがライバルである64%の市場を持つ日産への対抗策であった。新型ライト・スタウント(2トンクラス)の販売強化と共に、前年10月に合意に達した日野自動車との業務提携の結果として日野ブリスカ1300を改良し、1トンクラスの尖兵としてトヨタ・ブリスカ1300を据えた。
この新生ブリスカは非常に多くの細部の改善とトヨタ車としてのインテリアの変更並びにトヨタ系の部品への変更等(例としてキャブレターの日立からアイシンに)があった。最も大きな特徴がコンテッサ・ベースのGRエンジンが第二世代と言うべきG型エンジンに発展したことだ。1966年度のBRE(ピート・ブロック)での米国でのレース経験を基に信頼性(オイル消費量やタイミングギアの耐久性、クランク&フライホール一体のバランス調整他)の向上、8馬力のパワーアップ(燃焼室&ポート形状を含むヘッドの全面改良、ハイリフトカム、4-2-1エキパイなど)、そしてメンテナンス性向上などが盛り込められた。何とエンジンブロックには日野プロトに搭載されたYE28型(ツインプラグ&カム)のデザイン(型)が流用された。
本来これらの改善は日野の時期計画にあったコンテッサ・マークIIに盛り込まれる予定であったが、残念ながらコンテッサは業務提携とともに消え去る運命にあった。
日野ブリスカ1300は日野と提携関係にあった三井精機で生産されていた。日野とトヨタの提携の結果、三井精機の生産は撤退し、日野のコンテッサの生産ラインで、効率&利益最重視のトヨタ流生産方式導入の第一歩としてトヨタからの委託生産のパブリカ・バンと共にトヨタ・ブリスカ1300を生産するようになった。
トヨタ・ブリスカ1300の生産期間は1年、生産台数は10,000台の計画であった。1968年度にはその生産ラインが新型車種トヨタ・ハイラックスに入れ替わった。その後、日野は長きに渡って、トヨタ・ハイラックスを生産することになる。
カタログは日野ブリスカのカタログに比較し、完全にビジネスライクな小型トラックとしての実利的な内容に変わった。当然のことながらそこには日野コンテッサと共に走る粋な姿もなかった。
一方、トヨタ側に目でみるために、当時のトヨタの文献 (昭和42年6月、トヨタ技術、第19号 第1号) を精査すると、「新製品紹介」として「トヨタブリスカの発売2祭sて」に日野川ではトヨタの論理が明確に記されている。そこには、
- 昭和41年10月15日のトヨタと日野の業務提携発表後、7ヶ月、両社協力し、新しい車両 “トヨタブリスカ” を開発
- 旧型車 (日野ブリスカ) に比べて、54項目、370か所の大構造を加えた
- 終始一貫して、設計においても、テストにおいても決して改造車ではない
- 54項目、370か所の氷山の一角にすぎず、トヨタ部品の共用、トヨタ式設計基準を採用、品質保証制度のマナーなど、本質はトヨタ式の製品設計であり、最初の段階から設計、テスト、号口化含め、あくまでトヨタの新型車両
- などなど
この文献から伺えることは提携というものは如何にクルマづくり、引いて胃は企業そのものに変化、影響を与えるかが理解できる。日野ブリスカの文献ではなかった実車のクラッシュテストとか、特にエンジンの各部品の精度が日野のそれとはくらべものにならないくらい向上していることは明らかである。たった1年の生産であったものの、日野自動車はトヨタ式の設計・生産プロセス、さらに販売後のサポートについて叩き込まれたのはないかと分析する。しかし、エンジンのヘッドボルト、ピストンとあらゆる日野製の部品のトヨタマークが打刻・刻まれるに至っては当時の日野自動車にとってどのような想いだったのだろうか?
【1967年(カタログ番号:10056-42.2)PDFダウンロード:1.3MB】
(SE,7.15 Recreated)
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