ピーター・ブロックを驚かした快速
昨年七月のこと、「このたび、仕事の用件で、カリフォルニアに旅行することになったが、その際自家用車として使うため、アメリカに持って行きたいから、鈴鹿のグランプリでレースしたものと同しタイプのコンテッサ900GTを、一台,譲って貰ええないだろうか」と私が申出たとき、これを聞いた日野自動車の輸出部の面々は、恐らく目をまるくしてびっくりしたに違いありません。
それでも、いろいろと交渉の末、話がまとまって、8月10日このコンテッサは横浜で船積されロサンゼルスに向いました。私はあとから飛行機でアメリカに飛び、9月6日には私と車とはロサンゼルスで目出度く再会出来たのでした。
当初私はこの車をレー入に出そうなどと本気で考えていたわけではないのです。しかし、この車が、バケットシート、ロールバー、安全ベルト、プラスチックの窓ガラスとか、強化されたサスペンション、3度の逆キャンバーをつけた後輪、フロントに移された燃料タンクや低められたボディなど、特に高速安全装置を施した車であることは、もともと承知していました。
元来この車は、ハイウエイでの高速ドライブに適するように、985ccにボア・アッブされたエンジンと、前進四段ミッションとを取付けたものですが、更に加えて、特別なカムシャフト、二つの気化器、それに高圧緒比のへッドなどを使ってチューンアップし、ほば160キロのトップスビードが出るように改造したものでした。
それから数週間、私はロサンゼルス附近のフリーウエイを、あちこちとこの車で走り廻りましたが、或日のこと、私と一緒にこの車でドライブしたレース仲間達が、こいつはえらく速いじゃないか、レースに出せるぞと云い出したのです。そこで私は友人のピーター・ブロック(有名な米国のレース・カーであるACコブラの主任設計者)と連れ立って、アメリカのトップクラスのレース場の一つ、加州リバァサイドのロードコースへ行って、この車をテストことにしました。その結果はどうだったでしよう。ピーター・ブロック先生は、わが愛車コンテッサの快走ぶりに、全くびっくり仰天したあげく、リバァサイド・グランプリ大会中に行なわれる10月10日の三時間耐久レースに、何が何でもこの車を出場させろといってきかないのです。そこで私達はこの車を、米国スポーッカー連盟に登録して、改造ツーリング・クラスGCの出場資格をとりました。
最初の耐久スピードレース
ところで、驚いたことには、アメリカのレースというものは、実は大へんな社交的な行事なのです。レース場かいわいは、到る所おびただしい美女の群、そして連夜の晩餐会やカクテルパーティに加えて、ダンスパーティやら深夜の水泳パーティまであるのです。おかげで、二日間もパーティが続いたあとのレース日には私のコンテッサの方が私自身より遥かにコンディションが良いという始末でした。
さて、レースには68台の車が登録しましたが、その中、出走したのは55台で、その顔ぶれはフォードファアルコン、コルヴェット、ポルシェ・スピードスター及び904、トライアンフ、スプライト、コブラ、ロータスなど、およそ想像し得る限りの有名なスポーツ・カー、それに私の独りぽっちのコンテッサでした。
思い出してもおそろしく速い、むずかしいレースでした。それにも拘らずわがコンテッサは、途中只一度左後幹のタィヤ交換のためピット・インしただけで、スタートからドールインまで、見事に走り続けたのです。この一周4.2キロのコースで行なわれた三時間耐久レース中、私は765周のギヤチェンジをやり、288キロの距離を平均時速120キロで走りきりました。私のベストラップは2分8秒、そしてレースの成績はクラス二位でした。なお、総合順位では完走した33台中24位でしたが、コンテッサより上位に入ったのは、すぺて大馬力のエンジンをつけた米車や欧州車だけだったのです。
世界の名車をなぎ倒す
11月9日、私は朝早く友達をたたき起して加州のウイロー・スプリングスに向いました。そこの1.9キロの美しい丘陵コースで行なわれる、米国スポーツカー連盟主催のヒルクライム地方大会に参加しようときめたからです。
このレースでもコンテッサは、スイス時計の一級品のような、まさに正確無比の走りぶりで、BMW、ミニ・クーパー、ボルボ、MG1100、フォルクスワーゲン、ルノーなどの強ものを物の見事に打ちまかし、1100cc以下のセダンのクラスで苦もなく優勝をなしとげました。しかも、その日の最終発表で私の愛車が僅かに2台のフォード・ムスタングと1台のスチェードベーカー・アヴァンチ(いずれも4700cc)とに上位を許したのみで、全車種総合成績でも第四位を占めたと知らされたときには、さすがにわれながらびっくりしてしまったのです。
私の友人ピーター・プロックも同しコンテッサでこのレースに出走し、クラス三位、綜合六位の好成績を挙げました。
この勝利に輝く週末を終え、しばし調子を整えた後、私は再びレースに参加すべく11月2日加州デル・マーに赴きました。ここはサン・ディエゴに近い、一周2.1キロのコースでした。1,000以下のセダンのクラスで出走した私は、ここでも又見事優勝をなしとげ、観衆を興奮させたのです。全車綜合でも、どえらく速いミニ・クーパーS(1295cc)とMG1100に次いで第三位の素晴らしい成績でした。しかしこのレースで残念だったのは、たまたま他の車が(あとでドライブ未熟で失格した車でしたが)レース中私の車をかすってフェンダーを曲げたので、それを直すためピット・インして、90秒ほど遅れてしまったことでした。ゴールでは私の車は一着のミニクーパーから僅か49秒した遅れていなかったので、もしこの事故さえなかったら、クラス優勝ばかりでなく、綜合成績も第一位で文句なしの,完全優勝だったわけです。
勇ましき最後
この頃になると、コンテッサもさすがに相当くたびれてきました。それでも、何くそと「開拓者精神」をふるい起して、私はもう一つ、ウイロースプリングスのレースに出走登録をしたのです。このレースでの私のスタート順位は綜合第9位で、先順位は1位の快速のスプライ卜を除きすべて改造Hクラス(一人乗りのレーシング・スポーチカー)の車ばかりでした。
スタート!そして第一コーナーにかかる頃、コンテッサは早くも先頭から四番目にぬけ出ました。勿論自分のクラス(1100cc以下のセダン)では第一位です。第五周目で私は一位下って先頭から五番目になりましたが、クラスでは依然第一位。だが何としたことでしょう、ここで私はとんでもないミスをやってしまったのです。サードからトップヘギヤチェンジする際にセコンドへ入れたため、時速130キロで走っていたことで、すなわちエンジンをオーバーランンさせてしまいました。しかも、頭へきてしまった私は、その次のラップで何と又もや同しミスシフトを繰り返しました。可愛そうにさすがのコンテッサのエンジンも、この私の再度のミスに耐えることは出来ず、八周目に到りとうとう焼け果ててしまったのです。
申すまでもなく、私は目に一杯涙をうかべて、すごすごとピットに戻りましたが、大勢の仲間がそこへやって来て、ロ々に私を慰めてくれました。アメリカのレース・ファン達はみんな本当に良いスポーツマンです。その夜も私がほかの友達の祝勝パーティに行ったとき、大勢の人達が私と小さいコンテッサの素晴らしい走りぷりをほめたたえてくれました。
アメリカの名の知れたストックカー・レースに出場して好成績を挙げた日本製の車としては、この私のコンテッサGTが最初のものと思います。初出場で二位一回、優勝二回という結果は断じて悪い成績ではなかったといえるでしよう。
さて、私は再び日本に戻り、そして私のコンテッサは、今や主もなくエンジンもない姿で、可愛そうにカリフォルニアに独リぽっちでいるのです。もしかしたら、私がこの次にアメリカに帰るとき、新しいエンジンを手に入れて、今年もう一度この車をレースに出してやることが出来るかも知れません。私としては、是非そうしたいと願っています。
[編集部後記]
このようなダンハム氏の大活躍の結果は、早くもアメリカで相当の反響を起し始めたようだ。例えば、先月号のアメリカの有力専門誌スポーツカー・グラフィックは、快走中のコンテッサ900GTの写真を掲げ、「こりや一体何という車?」という表題でこんな記事をのせている。
.....12月号の本誌76頁に、編集者クリスティ氏が操縦してリヴァサイド・レースの第7コーナーを走行中のボルボP1800をアツプした写真がのせられました。ところが其の後、おびただしい数の投書が読者から奇せられて、あの写真のクリスティ氏のすぐ後にいる小さいセダンは、ありや一体何です?ルノーR8ですか、それとも…と間合せてきました。否々違います。これは日本製のセダンで、その名はヒノ・コンテッサ1300(これは900の誤り)という恐ろしく速いチビ助です。リヴァサイドの数時間もの耐久レースで、ミニ・クーパーでさえせいぜい2分19秒が良いところを、何と平均ラップ2分10秒で走ってしまった……と、以下コンテッサ1300の仕様をそっくり紹介しています。
アマチュア・モーターリストが週末の大きな楽しみとして、ふんだんにレースをエンジョイしているアメリカのローカル・レース風景は、ダンハム氏の一文からも十分想像出来るが、その中に出てくるピーター・ブロック氏からの最近の情報によっても、同地のセダンのレースは日を追い益々盛んに普及しつつあるとのことである。殊に、今年から暮らす別が1300ccを境に(従来は1100cc)分けられることとなったので、まだ見ぬコンテッサー1300クーペに対する期待と関心が、既に相当高まりつつあり、何とか工場に直按オーダー出来ないかという間合せまで奇せられている。
(日野社報、昭和40年9月より抜粋)
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