華やかな会場
1963年5月2日、この日は日本最初の自動車レースが開催された日である。
三重県鈴鹿市の郊外にある鈴鹿テクニランドの広大な会場には、前夜から野宿して見物しようという熱心なオートファンを含めて、約十万の大観衆がつめかけていた。この日は前夜の雨をふきとばして、朝から文字通りの五月晴で、南南西八メートルの風に、大会旗が大きくはためいていた。華やかな幕あきは、米海兵隊軍隊の勇壮をマーチ、花火と数千個の色とりどりの風船、高松宮殿下、FIAプリンスカラチオリ副会長のメッセージで始った。
観衆の期待と国際的オートレー入のふん囲気のなかで、午前九時三十分第一レースのスタートが切られた。このレースは、ズズライト、スパルなど400cc以下の車で優勝を争ったが、予選から優秀をタイムを出していたズズライトが順当に優勝。引続き行なわれた400cc~700ccクラスは、パブリカが、三菱コルト、三菱500、スパル450を押えて、6位までを独占した。
日野自動車のコンテッサが出場したのは、第三レース1300cc以下国内スポーツカーレースである。このレースは、コンテッサのほか、西ドイツのDKW、アウトユニン、イギリスのオースチンヒーレー、MCミゼットなどョーロッパ各国の優秀車が参加して行なわれた。
一周六キロのコースは、ホームストレッチから、第一のスプーンまでは直線コース、スプーンを廻ってかちは、やや昇り道となって蛇行、立体交叉に入って直線に近いところで20Rのへアピンカープとなり、続いて昇り、下りを右に大きくカープを過ぎて第二のスプンカーブ、直線の昇りを上り切ったところで五キロ地点となり、のこり1キロが、やや平たんな道路でホームストレッチになっている起伏とカーブの多いコー入であり、しかももともとが二輪車用として建設されたものであるから、コース巾がやや狭いというのが鈴鹿コー入の特徴で、レースはこれを13周するのである。
出走前のパドックは、異様な空気をはらんでいた。レース用のユニホームに身をつつみ緑色に白で「ドライパー」と染め抜いた腕章のいかめしい各選手は殆んどが始めての経験のためか、緊張した表情はかくしきれず、しっと空間をみつめている。また整備買に自分違の車をまかせたまま、立っている人、運転席でハンドルを抱えこんでいる人とさまざまである。やがて出走用意のファンファーレ、サイレンが鳴った。午前10時40分少し前である。 係員がスタート地点に集り、出場車の配列を気ぜわしく指図していた。
朝からの青空は次第に雲を増し、正面スタンドの観客が、やや中腰になって眺める中を14台の車が一せいにスタートした。出足の良さを誇るコンテッサがスタートをうまくとびだし、トップでカーブを回っていった。ダークブルーの車体に「14」のゼッケンが大きく浮き出している。トップグループはコンテッサ、オースチンヒーレー、DKW、MCミゼットの順である。一団となった出場車が、スタンドの視野から姿を消すと約ニ分後にはまたホームストレッチにもどってくる。この間、観覧席からほ、全然見えないので、レー入の展間はただ場内放送で、順位の変動がわかるだけなので、この三分間、観衆はカーブに消えていった車のイメージからさまざまの空想をえがきながら車の現われる方向を凝祝している。
一周目が終り、ニ周目もコンテッサがトップであった。殆んど同時にオースチンヒーレーも二周目に入った。スタンドの観客の話を聞くと、コンテッサがスポーツカーレー入に出場するというので、スプリントが走るものとばかり考えていた。セダンで走るということは、うんと無理があるのではないだろうか。スポーツカーは、スビードを楽しむためにつくられたものであるから…。といっていた。こんな組客の予想を裏切って?コンテッサは次の周もやはりトップで走ってきた。そして次の周もコンテッサが先頭であった。七周目、八周目もぞッケン14番が走ってきたが、九周目にはやや運れてきた。
外車の、しかもスポーツカーのなかで、懸命に走るコンテッサに組客はややあきれた感をいだいていたにちがいない。しかし、遅れたコンテッサに対して声援を続けた人も多数いた「判官びいき」といったら少し見当違いかも知れないが、セダンと、スポーッタイプのせり合い、一方は外国の名車、一方は国産車でおるからどうしても、日本の車に応援をしたくなるのが、人情であろう。そして、健闘していた14番のコンテッサが、へアピンカープで転倒したと場内放送があったとき、スタンドは大きくどよめいた。
最終回、オースチンヒーレー、DKW、コンテッサの順で最後のニ分間、六キロで、優勝があらそわれることになった。コンテッサは、セッケン15番である。この車は、九周目に投石によって、フロントウインドを破損していた。ガラスの破片が、助手席に一ぱい散って、それがキラキラと車の中で太陽に反射していた。ゴールはオースチンヒーレー、DKW、コンテッサの順であった。しかし、オースチンヒーレーは、車検後、フロントガラスを取替えたため、失格、1位、DKW、2位、コンテッサとなった。
このレースの最高ラップタイムは、最後に呆敢なレー入を展開して追い込んできた、15番のコンテッサが獲得した。時間は3分28秒2、平均時速103.818キロであった。このことが場内放送されたとき、観客の大きな拍手賞賛を受けたのである。レースを終った車が、続々とパドックの中に帰ってきた。どの選手も同しようにレースのはげしさを物語るように、ユニホームの、背中を汗でにじませていた。
そして、たたかい疲れた顔をしていた、2位になったコンテッサの立原選千は「ワイドガラスが割れなけれぱ、もっと思い切ったレー入が出来たんだが」と、しきりに残念そうな表情をして貴社団に語っていた。手にしたへルメットが、わずかに展えていたのは、やはりレースの興奮のためであろう。激しかったこのレースも、46分07秒0、で終った。しかしこのレー入はこの大会の二日間を通して最も観衆をわかせた好レースであった。
コンテッサの声価を発揮
二日目、第一レースは、700cc~1000ccクラスの国内ツーリングカ-レースで幕を開けた。この日は前日の好天気とうって変って上空を厚い雲でおおわれた、うすら寒い天気であった。観客もやや少なく、正面スタンドは七分位の入りであり、大会当局は、入場者七万と発表した。
午前8時20分、15台の出走車がスタートラインにならんだ。コンテッサのほか、DKW二台、ルノーゴルデー二、ブルーバード三台、ルノー4CV一台で、十周六十キロで優勝が争そわれるのである。前日おしくも転例して優勝を逸したR・ダンハム選手も、フロントガラスを破損しながら2位と、最高ラップ賞を狙得した立原選手も、コンテッサで、ふたたび出場。前日優勝したDKWも、同一車で二度目の優勝をねらって出場した。これらの優秀なドライバーたちは、自分の名誉のために、そして自分のドライブテクニックを最高に発揮することによリ優勝の栄冠を目指していた。そのほかの選手たちも同しきもちであろう。
緊張を包んだコー入に、出走の合図の旗が大きく振られた。15台の車が一せいにスタートを起した。激しいエンジンの排気音を残して、スタンド前を飛びだしたときは、1位から3位までをコンテッサで独占、そのまま第一スプンカ-ブに入り、やがて視界から姿を消した。
二周目は、R‐ダンハム選手のゼッケン4番が4位で入った。ニ周目も依然首位は変らず好調に、R・ダンハム選手のコンテッサがトップで走っていたが、ゼッケン6番の立原選手が巧妙なテクニックを見せて4位かラDKW、ルノーゴルデー二、R‐ダンハム選手のコンテッサを抜いてトップに立ち四周目に入った。立原選乎のコンテッサは落ち若いた走行で着々と優勝を目指して走っていた。首位争いは、DKW、コンテッサ、ルノーゴルデー二に紋られ、ブルーパード、ルノー4CVは全く後方に置き去られたレースとなった。
優勝の本命の一人であるR‐ダンハム選手はこのレースでも不運に見舞われ、六周目の後半に、突然エンジンが不調となり、遅れだした。この頃から、気温が上昇して、ときどきうす陽のさす天候となっていた。トップからDKW、コンテッサ、ルノーゴルデー二、コンテッサの順位で八周目を通過した。このときは、DKW、とコンテッサの差が600メーター、3位のルノーゴルデー二との差が500メーターとなっていた、ブルーパードは約五キロもはなれさておりトップのDKWに一周近く運れていた。
九周目を終わった直後突然快調に飛ばしていたDKWがピットに入った。整備員がポンネットをあわただしく開けた。過熱したのか、白い煙がエンジンルームからおびただしく上った。その横をゼッケン六呑立原選手が通過した。DKWもすぐポンネットをしめて約50メートル遅れてコンテッサを追って飛びだた。DKWのピットインの原因は、ファン・ペルトの折損によるオーバーヒートであった。ルノーゴルデーニもすぐ後を追った、最終回にかけられた優勝争いに上位三台が激しいたたかいを展開した。
9時7分04秒04、レースは終った。3分40秒台で確実に自分のペー入を守って走ったセッケン6番立原選手のコンテッサはこのような経過で優勝の栄冠を獲得した。2位DKW、3位ルノープルデニー、4位コンテッサ、5位DKW、6位コンテッサ、ブルーバードは、立原選手に最終回一周遅れ、内2台は失格、一台がかろうじて9位に入っただけだった。数々の記録と華やかな話題を集めた第一回日本グランプリ自動車レースは終った。このレースを報道したどの新聞、雑誌にも「国産車の水準が欧米車に劣らぬほど向上したことが実証され自由化の前途は今後の努力によっては大いなる希望を持つことが出来るだろう」と述ぺられている。
レースの中から
【優勝した立原選手】
国内ツーリングカーレースでコンテッサに乗って1位、同しくコンテッサで1300cc以下スポーツカーレースで2位、1300~2500スポーツカーレースではトライアンフを使い3位と、三種目に出場して全部入賞という三十九歳のベテランドライパーであるが、三洋自動車の工場長、十年前までは、二輪車のテストライダーとして、国際級の日本の二輪ライダ-を育てた人。一時、桶川の千代田運輸に動務したこともあるというから、これも日野とは浅からぬ因縁がある。
【塩沢三兄弟】
塩沢進午氏、三子夫氏、勝臣氏の三兄弟は105マイルクラブのメンパー、いずれもコンテッサで出場したが措しくも全員入賞をいっした。もっとも長兄の進午氏は、コンテッサのタク上りに乗って、うまくいくと優勝かなと余裕たっぶり。慶大仏文科出身だけに、どことなく教養ある笑顔を絶やさぬ好青年。レースがあるごとに日本の車は進歩します。コンテッサは最高の車ですと語っていた。
【女神に見はなされたR・ダンハム選手】
達者な日本語で、ワタシついてイマセンネとぼやく、商売はと聞かれると自分の頭を指して「ココを売る」と答える。要するに、アイデプを売るのかと反問すると、ノー、貿易商ネという。すなわちいいものを、輪入し、いいものを輸出する、アタマの問題ということらしい。一番好きなものは、奥さんと、コンテッサとオセジもまた一流、一流といえば、この大会でもドライブテクニックは、最高であったとオートファンの評。
(日野社報1963年6月号より抜粋)
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