オールドタイマー編集部からの問い合わせ
昨年10月 (2016年) 、オールドタイマー編集部から社の姉妹誌「VINTAGE Paradise」に日野コンテッサクラブの紹介をするのでついては聴きたいことありと電話をいただきました。クラブの方から設立当時のことは当方にと指示いたいたそうです。電話後、何度かのメールのやりとりをして、当時のことを説明させていただきました。
設問は、「クラブがどう立ち上がったのか、最初のミーティングはどんなもの」、「初回のミーティングのお写真」と理解し、以下のように5W1H (When (いつ) 、Where (どこで) 、Who (誰が) 、What (何を) Why (なぜ) 、How (どのように) を利用して説明しました:
- When (いつ):1973年8月、第一回ミーティングです。但し、ここでクラブの形がちゃんとできたかは別であくまでクラブ結成の第一歩を踏み出した訳です。とりあえず、会長は最年長の人生の先輩格の阿久津さん(コンテッサ900以来の日野ファン、日野がコンテッサ1300を撤退した後にルノーカルベラを購入予定だったが昭和43年にクーペを購入していた)にお願いしていた。本来ならば、約2年後の第2回ミーティングが事実上の発足だが、1971年からもろもろのクラブ結成のアクションをしていた故に、独断と偏見ではありますが、第一回ミーティングをクラブ創立としてました。
- Where (どこで):埼玉県所沢市 初代会長宅,阿久津 稔氏の所在地、当初の会則で原則で会長宅をクラブの所在地としてました。
- Who (誰が):人のしがらみを考えると「言い出しっぺ」あるいは「俺が俺が。。。」もあり、なんとも言いようがありません。結果的に、「PD300コンテッサクーペカークラブ(現日野コンテッサクラブ)立ち上げの思い出」にあるように、第一回ミーティングは誰も動かず、しかし誰もが期待をと、言う状況で、仁義をきって江澤並びに阿久津氏、羽藤氏、浜松の鈴木 隆(ルノー、900、1300のオーナー) さんが肉体的にも精神的にも真の原動力になったというのが正直なところです。それは当時のイベントや会報で理解いただけると思います。
- What (何を):これは最終的に、入会案内にある内容がすべてです。「WE LIKE the CONTESSA」です。今のクラブの状況は違うと思いますが、ただひたすらに何のおごりもなくコンテッサが好きだったと、日野自動車からは見放さても部品がなかろうが日野コンテッサは日野コンテッサだったのです。
- Why (なぜ):これも最終的に、入会案内にある内容がすべてです。また、先般お送りした「 クラブのルーツ&日野との関係」にある内容が本心であり当時の仲間内の会話であり、真の原動力になっています。これは残念ながら私がクラブを辞する頃には周辺から理解されなくなったようです。
- How (どのように):基本的に考えとしてあって実践してきたのは:
- クルマだけではない (クルマが主でなく人が主であったこと)、
- 会報は会員の意思疏通&情報をシャアするツールであり、絶やさなかったこと、
- オペレーションはクラブの長になったものが率先して自分の体と頭を動かしたこと。
- 世間 (会社や整備工場など) のしがらみを持ち込まなかったこと。
- これらはどれも難しい問題でありましが、少なくともぶれないように舵取りを表に、日陰からもしておりました。そしてクラブとしてのミーティングなどは控えめに年3度で良いと抑えました。
と、言うことです。「クラブがどう立ち上がったのか、最初のミーティングはどんなもの」を考えれば、「 クラブのルーツ&日野との関係」にあるように (文末を参照) 、メンテ部品をどうするか、これに尽きるのです。そのために情報交換、そしてたまにはツーリングでもと。そして重要な日野との関係はその後、こちらからも (日野自動車に) インプットしましたが一切興味を示しませんでした。と、いうよりはむしろコンテッサは禁句状態だった時代でした。その後は、我々から声をかけることは長い間ありませんでした。もちらん来るものは拒まずと、あくまで日野のしがらみは捨てていただいて、We like the Contessaでです。
<コメント1>
以上をよく考えてみれば、日野コンテッサは自分が購入した1970年以来、日野からの部品の供給という面では進展なし、後退もなし。クラブでの最初の10年間の部品供給は個人それぞれの工夫で成り立っていた。自虐的にみれば、それはコンテッサ撤退とともにすぐに日野から見限れられたことで、不運であったものの、自分あるいは自分たちでなんとかするという意識で有志が集まり、クラブの話になり、クラブ結成になったのだから、その意味では非常に幸運であった。これは他の(旧車)クラブにない特異な現象である。
<コメント2>
なぜ、JMCか? (PD300コンテッサクーペカークラブ(現日野コンテッサクラブ)立ち上げの思い出を参照) 発足当時のJMCは日野自動車の役員、内田 一郎氏 (アルファスパイダーのようなスポーツカー好きで「コンテッサ」の命名者、日野コンテッサのマーケット戦略を立て、海外での販売はこの方の努力そのもの、そして海外デーラーからも信頼&尊敬があり、今でも氏の厚意は語りぐさになっている。)はじめ多くの人がルノー4CVで関与しており、本当のクルマ文化を理解していた方として尊敬。内田さん自身、第一回、二回の日本アルペンラリーにご夫婦で参加。第一回の際には完了後、JMC誌にリポートを寄稿している(原本はありません。しかしネットで見ることができます)。そんな意味でJMCについては、「人、クルマ、文化」で尊敬&参考すべきものが多かった。
<コメント3>
最初の10年のポイント:
- 1973.8:第1回ミーティング、 “すかいらーく、調布店” にて有志の集り、仮のクラブ発足 ”宣言”
- 1975.4:第2回ミーティング, “すかいらーく、調布店” にて「PD300 コンテッサ・クーペ・カー・クラブ」発足ミーティング 会則など制定。初代会長:阿久津 稔さん
- 1975.5:第一号会報を発行、カーバッジデザイン募集開始
- 1975.8:第3回ミーティング,芦ノ湖一周ツアー&エコラン レストラン “トレビ” にて表彰式 (東名沼津IC)
- 1975.8:八重洲出版 “ドライバー” 9月20日号 クラブ紹介掲載(1/2頁)
- 1975.12:八重洲出版 “ドライバー” 1月5日号 “コンテッサクーペ大集合!” に協力 (7頁)
- 1976.4:TACSスピードフェスティバル (筑波サーキット) 協力クラブとして参加
- 1977.1:TACSニューイヤーチェリティミーティング (芝公園 東京プリンスホテル)
- 1976.5:1976年度総会、 “すかいらーく、調布店” 会則変更、日野コンテッサ・クラブに改称
- 1979.3:クラブのカーバッジのデザイン決定
- 1979.4:会報の名称を “PD” と決定
- 1979.6:クラブのカーバッジ完成&配布開始
- 1979.10:松竹映画他主催、 “宮崎クラシックカーコンテスト” 遠征
- 1979.11:サーモホース完成:クラブ制作部品の第一号
- 1982.1:ロアー&三つ又ホース:クラブ制作部品の第二号
- 1982.9:代替部品表発行(これまでのクラブ員の情報ベース)
- 1982.10:クラブ紹介フライヤー完成
- 1989.9:TACSクラシックカーフェスティバル (筑波サーキット) 、P2クラスに初参戦
- 1982.10:ディスクローター:クラブ制作部品の第三号
- 1983.1:ヘッドガスケット類:クラブ制作部品の第四号
- 1983.8:クラブ発足10周年記念ミーティング (伊豆箱根にてクイズラリー、伊豆長岡 “こだま荘”) 10年会員の表彰と10年会員特別クラブカーバッジを授与
以下は、1973年8月の “すかいらーく、調布店” での第1回ミーティングの画像です。撮影はMPS (MotorFan Photo Servoces) のご好意によるものです。ただただコンテッサクーペの好きな、”We Like the CONTESSA” な連中の集まりであります。この時点までこの10人全員会うことがなく、ここに初めて全員集結できためでたい場面です。今では天に召された方もおりますが、何人かの皆さんは今でも家族ともども付き合いをさせていただいてることは幸せなことです。
以下は、1975年8月の第3回ミーティング,芦ノ湖一周ツアー&エコランでの箱根 大涌谷でのスナップです。この画像は、当時の八重洲出版 “ドライバー” 9月20日号 クラブ紹介に使用しました。
【クラブのルーツ&日野との関係】
(本編は2008年10月当時の本サイトオーナーのクラブ在籍時の会報への投稿原稿の一部です。会報掲載は採用されませんでした。)
自分なりにクラブの創世記のころが走馬灯ごとく想いだされました。コンテッサを手にし、車検など購入店は部品は大丈夫というもののやはり当時さえ部品が不安でした。昭和47年ころだと思います。日野の葛西のデポに部品を購入に行きました。対応いただいた担当者の方からもう部品が無いことが直に説明され、倉庫に案内され(ボクは事実を知りたかったので)、本当に1300の部品が全くない現場を見せられました(そこには900やルノーは沢山在庫)。たった一つさびしくクラッチカバーがありました。これだけですと言われ、もちらん購入させていただきました。その後も横浜桜木町のジャパンモータース (部品屋) に在庫があるとかで足を運びました。しかし、消耗品はどこも同じで欠品でした。当時の解体屋に行っても必要な部品は同じように駄目であり役に立つものではありませんでした。当時、これはコンテッサ1300の運命は赤子のウデをへし折るようものでした。
また巷の中古屋にはコンテッサ1300が同年車の半分くらいの価格で展示されても在庫となり、また当時の活字情報では日野は政策的に日野地区周辺に下取りのコンテッサ1300を集めていると聞きました。でもそれらの多くは丁度、これまた引き取り手のない犬ネコが最終的に保健所に引き取られるような結果だったと推測します。
そんな中、有志が集まったのがクラブ以前のクラブであり、クラブの起源です。当然、コンテッサ1300の部品をどうするかと言った話は濃厚になり、代替えはもちろん、日野の横浜の輸出倉庫に日本全国のコンテッサ1300の部品が集められている、補給品が沢山在庫している、また在庫がなくとも輸出先で求められた部品 (プレス品やクランクなど含む) は製造している事が日野内部からの情報で話題となりました。それでは我々にもと話になりましたが残念ながらそれはかなわぬものでした。国からの指導で国外ユーザーには部品を供給する、しかし国内ユーザーには意図的に部品を供給しないと自ら言う大企業の論理にほんろうされることなく、 (日野をあてにしてはいけない) 自分たちでなんとかなる、そういうことに希望をいただいたことが今でも目の前に浮かびます。それは今でも変らない気持ちです。
そんなことがクラブを立ち上げる原動力になり、会則も出来、運営した次第です。結果的に、クラブとして、「日野には世話になってない」と言うのが原点であり背景なのです。
当初、日野の社員の方にもクラブの勧誘しました。当時の日野の社内事情と思われますが、多くの方々はクラブに足を踏み込むことへの躊躇があったと記憶します。しかし、クラブの形が出来ますと徐々に入会していただくようになりました。それはそれで結構なことで、あくまで日野社員と言う「かたがき」でなく、あくまでコンテッサの好きな連中のお仲間です。これは日野の社員ではないコンテツのオーナーが「日野」と言うブランド&歴史へのRespect(尊敬とか敬意)があってのことです。
(SE, 2017.3.28, Original)