カーバッチはクラブの象徴
PD300コンテッサクーペカークラブ(日野コンテッサクラブ)の思い出(5)の中の「最初の10年のポイント」の書きましたように、1975年5月の第一号会報を発行にはクラブの「カーバッジ」のデザインの募集開始をクラブ活動の最初のアクションとして実行しました。もちろん、会報に「カーバッチ」を交付 (但し、実費) としてました。
この目的は、世界のカークラブをみればそれぞれの特徴を表した、あるいは象徴したようなそれなりに品格を感じさせるクラブのカーバッジが存在します (グーグル画像検索:Car Club Badge) 。またそれを愛車の取り付けることで、コンテッサの品格をさらにアップさせ、またクラブの一員であるあるという一体感を得ると感じていました。すなわち、「カーバッチ」はフォーカルポイントであり象徴と強く考えた訳です。
そんな「カーバッジ」も募集したものの中々集まらず、結果的に4年の年月を経て、1979年3月に “独断と偏見” をもって決定し、3ヶ月後の1979年6月に配布できることになりました。
このクラブの「カーバッチ」はボクも含めて色々ポンチ絵を描いたものの、どうもうまく行かず (要は素人なのでテンコ盛りにして、ビジー、すなわち複雑になってしまう) 頓挫してました。その内、当時の会長であった高田さんが、コンテッサ1300クーペのステアリングのホーンボタンをモチーフにシンプルなものをデザイン、ご自分で手書き・手製のバッジを創り、愛車に取り付け、全体観を確かめました。それは中々イイと、結果的に採用し、めでたく出来上がりました。これは今でも最高傑作と考えております。
そしてクラブもある意味では順調に、あるいはいばらの道を経て、10周年を1983年8月を迎えることになりました。その頃はクラブが10年もよく続いたなと感慨深いものがありました。今考えれば、10年なんて短いものとお考えの皆さんがおられると思いますが、当事者としての実に長い道のりだったと当時、考えていました。
当然、10年の節目は盛大に花火を上げようというのは誰しも心に思い描くものです。そこで全員がここまで苦労 (?) して来たことの証しに、クラブ発足10周年記念ミーティング を思い出の箱根でと、そして走るイベントのクイズラリーを実施しました。
さらに10年目の会員には敬意を表して表彰をしようというこにとなりました。そしてその証しを明確なものにするために「10年会員カーバッジ」を授与 (無償) することにしました。発足当時からがんばってきた皆さんの労をねぎらうことはもちらん、まだ10年に達してない皆さんにはもう少し頑張ればこの格好良い特別な「10年会員カーバッジ」を手にすることができるのだという奨励の思いもありました。当然、この先の20年、30年なんても考えましたが、おそらく20年はすぐ来るな、それはいらない、その先の30年はそれだけ続けばそれはすごいことで記念カーバッジをと、10の文字を30に変えばそれはそれで箔がつくだろうと考えていました。そして、その先は40はスキップで50周年あたりが大きな節目だろうと勝手に妄想してましたが、自分はその頃は墓場の中から見届けるだろうなんて軽く考えてました。
そんなこんだで考えた「10年会員カーバッジ」は、高田さんがデザインしたオリジナルをモチーフに世界的によくあるギザギザのギヤのような自分としては好みのものを付けて、10年の名誉を称えて、「HONOR 10 YEARS」とシンプルな文字をデザインし、ゴールドの文字や枠を配しました。このデザインも自画自賛ですが、高田さんのオリジナル同様に、自分として最高だったと考えております。
そんな二つの「カーバッチ」はクラブを辞した今でも大切に保管して、時折、磨いたりしております。ただ、自分のコンテツに取り付けるのはさすがにそれはできません。
最近ではこれら二つの「カーバッチ」もブランド感があることはデザインしたものとして嬉しいものです。時折、当サイトオーナーがクラブを辞していることを理由に、クラブに所属してないコンテッサのオーナーが、不要なのだろうから売って欲しいという輩もでる有様です。もちろんお断りしております。また、すこし前にはヤフーオークションに「10年会員特別クラブカーバッジ」が売りに出て、4万円近い価格になったのを記憶しております。とんでもないことと思う反面、クラブの「カーバッチ」がそれだけのブランドがあったのか考えると、当初思い描いた「カーバッジはクラブの象徴」は間違いのないものであったと考えます。
さてこれは余談ですが、これら二つの「カーバッチ」にも、以下のように自分として悲しい出来事もありました。:
2002年の総会で永久会長であった高田さんから変わって、新たな時代に向かったようで、それはマネージメントが入れ替わり、つまり変化が起こりました。それと同時にすぐに手がけられたのが、クラブのグッズ含めての在庫処理でした。Tシャツなどもありましたが、とにもかくにも在庫金額を低減するのが目的だったようで、よくある企業の新しい社長になれば方針が変わるというようなものでした。ある意味では新たのマネージメントのパワーを誇示したいような荒技でした。それは今までのクラブ内部のやりかたが悪いと言いたげのやり方でもありました。
その在庫一掃がクラブバッジにも及びました。たくさん余っているので (原価割れの) 500円で処分ということでした。ボクはその在庫処分のチームの蚊帳の外でありましたが、それを裏ルートで伝えて来てくれる人たちがおりました。そこで、その時期の会報に明らかな形で「バッジはクラブの象徴、そんなことをするのであれば、江澤が残っている全てを買う」と投稿しました。バッジの原価は当時の価格で800〜1,000円くらい (「10年会員カーバッジ」は少し高く、1,200円くらいと記憶) であり、全部購入することには楽観視しておりました。
これに対しても裏ルートの情報で、「それなら江澤に全部買わせろ」という様なことを罵声のごとく言っていたようでした。こんなにも文化が異なる人たちなのかと大いに失望するものでした。しかし、当時の会報には担当者の「善人のクラブ」の計らいがまだあり、この苦言もちゃんと原文で載せていただきました。
結果的に会報を通じてのクラブのカーバッジへの思いが通じたのか、500円での処分はなくなりました。ある意味で会報を通じてクラブのガバナンスがまだ効いていたのです。これでクラブの象徴である「カーバッチ」は不良在庫あるいは不用品のごとく処分されずに済みました。ある意味でこの出来事は二つの「カーバッチ」について当時のクラブのトップの考え方を変えさせてもらった出来事と今では分析しております。
という事で、旧い思い出でありますが、今後もクラブの「カーバッチ」を象徴として愛顧いただければ幸いです。
(SE, 2017.4.2, Original)